デビュー30周年を迎えるバリトン歌手
 晴雅彦に聞く

テレビドラマなんかでも、ストーリーに関係なく、テロップでその俳優の名前を見つけるとニヤッと口元が緩んでしまう、そんな俳優に心当たりはないか。主役はもちろん美しく格好良くて、既に人気のタレントを持って来るだけなので、さほどサプライズはないが、思わずニヤッとしてしまう俳優の存在は、ドラマ作りに必要不可欠なモノだと思うのだ。
性格俳優と云うのだろうか。現在のテレビ界でその俳優は誰なのか……、色々と意見が分かれるところだろうが、オペラの世界で 晴雅彦 の名前は、その感覚に近いのではないか。事実、新国立劇場、兵庫県立芸術文化センター、びわ湖ホール、東京芸術劇場といった国内有数のプロダクションからのオファーは絶えない。
大学で学生を教える傍ら、常に「時間がない!」と飛び回っていた晴雅彦もまた、ステイホームで時間を持て余し、何もやる気が起こらなかったと話す。
再び埋まり始めたスケジュール帳を片手に飛び回っている晴雅彦に、あんなコトやこんなコトを聞いてみた。
―― 今年はデビューから30周年だそうですね。
はい。当時23歳だった1990年、堺シティオペラの第5回定期演奏会でプッチーニの「蝶々夫人」のオーディションのニュースを耳にしました。卒業してすぐだったんですが、安則雄馬先生がオーディション受けてみたらと勧めて頂き、出番が5分程度の神官の役で受けたのですが、演出の平尾力哉先生から「ゴローでどうだろう!」と言って頂きました。神官と比べて出番も多く、何よりもテナーの役だったことも有って、バリトンの私には無理だと思い、まだ私には早いと思いますとお断りをしようと考えている旨を安則先生に報告しました。先生からは、「早い早いと言っていたら、いつまでも舞台で歌えないぞ!」と言われ、腹を決めてやらせていただく事になりました。この時のゴロー役が、この後、自分にとって最も大切な役になるとは思っていませんでした。
プッチーニ 歌劇「蝶々夫人」よりゴロー (2008.4.兵庫県立芸術文化センター) 提供:兵庫県立芸術文化センター/撮影:飯島隆
―― 晴さんは大阪音楽大学出身ですね。音楽を志されたのはいつ頃ですか。
小さな頃から音楽は好きでした。1歳半の頃はピンキーとキラーズの「恋の季節」を、まだちゃんと喋れていなかったのに、歌っていたそうです(笑)。3歳からはピアノを習っていましたが、音楽は歌謡曲が好きでした。ピンクレディのミーちゃんにハマっていた小学5年の時に、友達が入っていたことも有って合唱団に入りたいと親に頼み込み、地元の富田林市少年少女合唱団に入りました。
晴雅彦 小学校5年生(富田林市少年少女合唱団演奏会)
合唱は楽しかったですよ。入団して1年ほどで、ソロを歌わせてもらえるようになっていました。そして、私にとって特別なアイドルのお二人、山口百恵さんが引退し、松田聖子さんがデビューを果たした1980年に、私は中学生となり、新たにブラスバンド部でホルンを吹き始めました。ホルンを吹きながらも大好きな歌は続けていました。合唱とは別に、ヤマハのポピュラーボーカルの学校にも通って、マイクを使って歌う事も勉強していました。「自分にはホルンより歌の方が合っている。これから本格的に歌を勉強していこう!」と思ったのですが、好きな歌謡曲は歌っていましたね。高校生の時にはMBSのヤングタウンの「ヤンタン歌謡選手権」にも出場して勝ち抜いてイイ気になっていたり…。
白状します。当時、本気でアイドル歌手になりたいと思っていました。今のように音大にポピュラー科が有れば、そちらに行っていたかもしれません(笑)。
―― ここまで、クラシックのクの字、モーツァルトのモの字も出て来ませんね(笑)。
もちろん、中学3年の終わりから大阪音楽大学の先生に声楽を習い始めたので、クラシックも勉強していました。歌が好きなので、音大に入ればずっと歌を歌っていられると思い、プラシド・ドミンゴの事も知らないのに、大阪音楽大学に入る事になりました(笑)。大学に入ってから漸く、オペラを本格的に勉強し、もっと上手くなりたいと俄然意欲が出てきました。関西歌劇団や関西二期会で合唱のエキストラとして呼んでもらえ、交通費程度ですがお金を頂いて歌うことが出来、幸せでした。しかし、プロ歌手の実力に触れ、大いに刺激を受け、益々レッスンも頑張りました。演じる事や、ステージ上で歌う事の楽しさを知ってからは、とにかく上手くなって、オペラをたくさん歌いたい!と思うようになっていました。卒業してすぐに色々なステージに上げて頂きましたが、レッスンに通ったり、チケットノルマなど、なかなかお金もかかり、聖歌隊や披露宴での歌唱のアルバイトをしながら日銭を稼いだりと、常に問題を抱えていました。
―― 振り返ってみて、晴さんの人生で転機と言えばいつ頃になりますか
1995年の堺シティオペラ、モーツァルトの「魔笛」にパパゲーノ役で出演していたのですが、ドイツ人演出家S.ピオンテックさんにお気に召して頂けたようで、「ドイツに来ないか。こんなオーディションが有るんだよ。」と教えていただいたのが『ラインスベルク音楽祭』のオーディション。「君なら他にも仕事があると思うよ。」ということで、オーディションを受けにドイツ・ベルリンへ。『ラインスベルク音楽祭』のオーディションは500人くらいが参加する厳しいものだったのですが、唯一の日本人合格者になる事が出来ました。『ラインスベルク音楽祭』のプローベが始まる前に、S.ピオンテックさんが演出されるドイツ・ケムニッツ市立劇場の「魔笛」のパパゲーノでヨーロッパデビューを果たしました。その後、プローベを経て、ドイツ『ラインスベルク音楽祭』だけでなく、スウェーデン『ヴァドステーナ音楽祭』と合わせて「ヴァルダー」ドルモンス・ゾーン役を11公演行いました。ドイツでは、ザクセン州立劇場にも出演しましたし、ケムニッツ市立劇場には数多く出演させて頂きました。
ニコライ 歌劇「ウィンザーの陽気な女房たち」よりDr.カイウス (1998.6.ドイツ・ケムニッツ市立劇場)

フンパーディング 歌劇「ヘンゼルとグレーテル」より魔女 (1998.12.ドイツ・ケムニッツ市立劇場)
―― この写真はいつの写真ですか。

ケムニッツ市立劇場の「ウインザーの陽気な女房たち」からDr.カイウスと「ヘンゼルとグレーテル」の魔女ですね。演出家のひと言で渡独を決意し、現地で音楽漬けの生活が送れたことは、その後の自分に大きな影響を与えました。この時の経験を踏まえ、後に文化庁派遣芸術家在外研修員として、再びドイツを訪れています。
私にとって一つ目の転機となりました。
―― という事は、二つ目の転機が有るという事ですね。
はい、ドイツから戻り、それなりに仕事も増え始めていた時に、新国立劇場でオーディションが有ると耳にしたので受ける事にしました。ちょうど芸術監督がトーマス・ノヴォラツスキーさんに替わるタイミングです。オーディションは新国立劇場のイル・トロヴァトーレのセットの中で行われました。もう最高に幸せを感じる空間です。
―― オーディションでは何を歌われたのですか?
「フィガロの結婚」の伯爵のアリアと、「魔笛」のパパゲーノのアリアを歌いました。
―― アリア2曲でその後の人生が決まるのですね。
そう思うと凄いですよね。歌っただけで、演技のオーディションがあったわけではないのですが(笑)。そして、晴れて2003年10月、ノヴォラツスキーさんの、新国立劇場芸術監督就任の公演、モーツァルト「フィガロの結婚」のアントニオ役で、新国立劇場デビューをさせて頂きました。その後も、若杉弘氏、尾高忠明氏、飯守泰次郎氏、大野和士氏と、芸術監督が替わる度に試聴会が行われて来ましたが、歴代の芸術監督にもコンスタントに使って頂いて来たのですが、コロナで活動が止まってしまっています。いずれにしても、日本でのオペラ活動の基盤が出来た事は、その後の歌手活動を考える上で大きな転機となりました。
ヴェルディ 歌劇「ラ・ボエーム」よりアルチンドロ (2016.11.新国立劇場) (c)TERASHI Masahiko

アルバン・ベルク 歌劇「ルル」より猛獣遣い (2005.2.新国立劇場) (c)C.Saegusa
―― 晴さんというと、新国立劇場だけでなく、国内の大きなプロダクションには軒並み出演されているんじゃないですか。兵庫県立芸文センターの通称 “佐渡オペラ” もずっと出ておられるイメージがあります。

色々なところからお声をかけて頂き光栄です。佐渡裕さんが芸術監督を務められている兵庫県立芸術文化センターのオペラは、2005年のオープンに際して「ヘンゼルとグレーテル」のオーディションで選んで頂いて以降、色々出演させて頂いています。オープニングの「ヘンゼルとグレーテル」ではお父さん役のペーター、「蝶々夫人」のゴロー、「魔笛」のパパゲーノ、「メリー・ウィドウ」のサンブリオッシュ、「こうもり」のブリント、「セヴィリアの理髪師」のフィオレッロとアンブロージオ、「フィガロの結婚」のアントニオなど、数多く出演させて頂いています。
レハール 喜歌劇「メリー・ウィドウ」よりサンブリオッシュ (2008.7兵庫県立芸術文化センター)  提供:兵庫県立芸術文化センター/撮影:飯島隆
―― これだけ色々なプロダクションから声が掛かるのは、晴さんが演じられる脇役の妙にあるのではないでしょうか。バイプレーヤーとしてやって行こうと思われたきっかけなど有るのでしょうか。
自分としては、バイプレーヤーとして生きて行こうとか、このようなキャラクターで売っていこうとか、そういった事を考えた事はありません。与えられた役を一生懸命に演じる為に、楽譜の中から作曲家のメッセージや想いを読み取り、それを忠実に表現するために、技術を磨いて来た日々でした。25歳の時にドン・ジョヴァンニを栗山昌良先生の演出でやった時に、マゼット役だったのですが、脇役の難しさと奥深さを、厳しく教えて頂きました。翌年には蝶々夫人のゴローで再びご一緒したのですが、「いいかい、これは「蝶々夫人」というドラマなんだ。自分の役からの視点で演じるのではなく、ドラマトゥルギーとして考え、その役を演じなければならない。お客様を裏切ってはならない。」と教えて頂きました。
―― 自分でバイプレーヤーとして生きて行こうと決意された訳ではなかったのですか。
そうですね。結果としてそういった色の強い役がまわって来るようになりました。「トスカ」の堂守の役をいただいたのも栗山先生が演出の時でした。こんなおじいちゃんの役を、20代で出来るかなと思ったのですが、自分の視点で演じるのではなく、トスカを取り巻く政治ドラマの中で、この役の在り方、このセリフを言う意味を徹底的に教えて頂きました。そういった事を通して、芯となる役を光らせる為に影に成ったり、発色させるために違う色に成ったり、どう接するかといったことの大切さを学びました。自分が面白い事をして目立とうとすると、ドラマを潰してしまう。そういった事を肝に銘じて演じているうちに、気が付くと自分の個性やキャラクターのようなモノを周りが作ってくれました。
―― これまでゴロー役は何回くらい演じておられますか。
いちばん多く演じさせていただいているのがゴローとパパゲーノで、どちらも30回以上、40回ほどやっていると思います。楽譜も出来る限り読み込んで、毎回演出家のプランに沿った人物像を演じようと必死に追及して舞台に立っていますが、今でも毎回発見が有ります。
モーツァルト 歌劇「魔笛」よりパパゲーノ (2007.7.兵庫県立芸術文化センター) 提供:兵庫県立芸術文化センター/撮影:飯島隆
―― 晴さんにとってオペラ歌手とは別の顔が、教育者としての顔です。母校の大阪音楽大学の声楽科教授として後進の指導をしておられますね。
母校で教えるようになって10年です。教える事は自分に合っているように思います。生徒と一緒に声を出しながら「身体をこう使ってみよう!」とか、「その時、感覚はこっちに持って行ってみて!」といった感じで、一緒に身体や意識を動かすことで立体的に声が見えるようになってきました。テノールの生徒も多いからでしょうか、私自身もこの10年で音域が広がって、以前より高音が出るようになりました。
メノッティ 歌劇「テレフォン」より、大阪音楽大学声楽科教授ソプラノ石橋栄美と(2018.11ザ・カレッジ・オペラハウス) 写真提供:大阪音楽大学
―― SNSにも生徒さんと一緒の写真を多数アップされていますが、本当に楽しそうですね。
教える事が負担に思える事はありませんね。私が経験して来た事なら、何でもいくらでも教えてあげたいと、レッスン時間もついつい伸びがちです。自分に子供がいないからでしょうか、実の子どものように生徒が愛おしく思えるんです(笑)。
―― 母校で教授をやりながら、歌手としては全国のプロダクションからオファーがあるなんて、恵まれておられますね。
本当に有難い事だと思っていますが、私もオーディションに落ちたことも有ります。ただ、そのオーディションを落ちた事で、結果として時間に余裕が持て、ドイツに渡る事が出来ました。その後のハナシは、先ほど話した通りです。実は、そのような事はいくらでも有り、私は人生に無駄な事などなく、全てが必要なんだと捉えるようにしています。生徒にも、「失敗しても構わない。失敗した事で結果として良かったと思える人生に変わるように頑張り!」とエールを送るようにしています。
全ては偶然ではなく必然だと思います。     (c)H.isojima 協力:クラシック音楽CAFE &BAR ARANJUEZ(アランフェス)
―― 受け止め方が大切という事でしょうか。
そうですね、またタイミング的な事もあるのではないでしょうか。懇意にさせて頂いているスピリチュアル・カウンセラー江原啓之さんは、すべては偶然ではなく必然だと仰っていて、まったくその通りだと思います。
―― 晴さんが、今一番やりたい役は何でしょうか。
やってみたい役はいっぱいありますが、ヴェルディ「ドン・カルロ」のロドリーゴ役は、機会があればもう一度やりたいです。これまでに堺シティオペラと関西二期会で二度やらせて頂きました。なんといっても名曲がいっぱいなのと、声の勉強にもなります。ロドリーゴは常に冷静な人間で、周囲を見ながら、今何をすべきかを客観的に捉え、自己犠牲も厭わないタイプ。昔から好きで、大学の卒業試験でも「ロドリーゴの死」を歌ったくらいです。あと、「メリー・ウィドウ」のダニロも、もう一度やってみたいですね。
―― オーケストラ伴奏付きの歌曲なんかはいかがですか。
以前にマーラーの「さすらう若人の歌」をオーケストラとご一緒させて頂いた事があります。リヒャルト・シュトラウスなんかも歌ってみたいですね。大好きです。以前は、リサイタルの最後は「Morgen」で終わろうと思ったことも有ったほど。でも、そういう仕事は来ませんね(笑)。
「ジルヴェスター・ガラ・コンサート2014」より (2014.12.兵庫県立芸術文化センター) 提供:兵庫県立芸術文化センター/撮影:飯島隆
―― そんな晴さんの30周年のリサイタルが行われます。チラシに載っているプログラムは日本の歌曲集が2作品。「Morgen」は載っていないようですね(笑)。
今回の30周年は日本歌曲を歌います。昨年のリサイタルでは同じ日本の歌でも、「糸」や「時代」「贈る言葉」「乾杯」などJポップなどもたくさん歌いましたが、今回は5年前に作曲家の笠松泰洋さんに委嘱して作って頂いた、全10曲からなる歌曲集「鳥のように」を歌います。40分ほどの大作で、10曲目には晴雅彦の人生に捧げるというサブタイトルが付いています。作品としては、まるで時代も場所も自由に行き来して様々な場面で歌う、鳥の歌のような詩集であり、曲のスタイルも、かなり現代的なものから古典的雰囲気まで、いろいろ幅のある歌曲集です。夏が去り、実りの秋を迎え、冬に向かって行くといった曲もあり、まさに「晴雅彦の人生に捧げる応援歌」という感じです。もう1曲は、小学校1年生のよしむらせいてつ君が書いた詩に、中村茂隆さんが曲を付けた10分ほどの作品「晴雅彦のための6つの歌曲」。この曲は昨年も歌いましたが、コチラも素敵な曲です。
声楽教員コンサートより (2020.8.大阪音楽大学ミレニアムホール) 写真提供:大阪音楽大学
―― 晴さんの為に書かれた40分に及ぶ委嘱作品の日本初演ですね。オペラでインパクトのある役柄を演じておられる晴さんとはまた違った一面が見られるはずで、大いに興味が湧きますね。最後に晴さんから「SPICE」の読者にメッセージをお願いします。
コロナウィルスで想像もしていなかった事が起こり、半年以上が過ぎました。当初、歌の世界はいきなり暗黙の世界に変わった思いでしたが、世の中は少しずつ前に動き出しているように思います。歌の世界も少しずつ光が見えてきて、コロナと共に生きる新しい世界を迎えようとしているように感じます。
歌は人間の生活とは切っても切れないものだと思います。歌は寂しく悲しく苦しい時には、元気や勇気を与え、楽しく嬉しい時には、その喜びを倍増させてくれます。そして歌は、言語や肌の色を超えて、武力や権力ではなく、世界中の人たちの心を調和で満たして結び付けてくれるものです。
どうか、どんな時でも、心に歌を、唇に歌を忘れないでください。音楽は心の栄養ですし、音楽を美しいと感じる心をお持ち頂けたら幸いに存じます。
これからも晴雅彦をよろしくお願い致します    (c)H.isojima 協力:クラシック音楽CAFE &BAR ARANJUEZ(アランフェス)
取材・文=磯島浩彰

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