首振りDolls × 鮎川誠(シーナ&ロケッツ)鼎談

首振りDolls × 鮎川誠(シーナ&ロケッツ)鼎談

首振りDolls、憧れの鮎川 誠と鼎談!
ジョニーとナオが感銘を受けた
ロックレジェンドの
最高にカッコイイ生き方とは

歌詞で言いたいことが
100年経ってもカッコイイか。
それを見ないと曲は作れない。

首振りDolls × 鮎川誠(シーナ&ロケッツ)鼎談

首振りDolls × 鮎川誠(シーナ&ロケッツ)鼎談

鮎川:久留米や大川は木工の街でもあるんよ。そやけん、ギターが田んぼの裏にいっぱい並べてあって。まだボリュームとかが乗る前(付けられる前)の、黒やら白やらいろんな色で塗られた土台がいっぱい干してあってね。ギターが大好きやから、そんな加工段階のものを見るのも好きで。ギターのフォルムを見るだけでワクワクする。
ジョニー:分かります!
鮎川:ちょっと変わった形のギター持ってる奴を見ると、“ちょっと弾かせて!”って、触らせてもらってた。ヤマハは職人が丁寧に作った感じが出てて、グヤトーンのギターは本当にロックンロールを感じるギターやった。
ジョニー:その当時、まだグレコはなかったんですか?
鮎川:まだそのときはグレコ無かったんよ。おっ、その話に行く?
ジョニー:是非っ(笑)!
鮎川:浪人して大学に入ったんやけど、まぁ、大学に入る目的っていうのもロックンロールがキッカケで、その頃中洲にアタックちゅうバンドがおったんやけど、そのバンドに入れてもらいたくて、定期券を手に入れる目的で大学に進学しようとしてたんよ。
ジョニー:すごい動機ですね(笑)!
鮎川:そう(笑)。そのころの九州大学は授業料が1ヶ月1,000円で。そこも魅力だったんやけど、とにかく目的は、なんとかアタックに加わることだけやった。毎日アタックに加わる夢ばっか見よって。浪人してやっと入った九大の入学式が終わった後、すぐに中洲まで行ったんよ。そしたら、後にサンハウスを一緒に組むことになる篠山さん(篠山哲雄)に、“おー、まこっちゃん! 久留米なのになんでここにおると!?”ってビックリされたんやけど、“久留米から福岡までの定期券を手に入れたんで、もうこれからは毎日中洲に来れるんです!”って言うたら、“そうね! ほんなら今から弾いていき!”って言われて。ヤッター!っていう感じやった。そこから、スペンサー・デイヴィス・グループの曲やら、ソロモン・バーク、ウィルソン・ピケット、ジェームス・ブラウン、フォー・トップスっていう、ローリング・ストーンズがお手本にしとるアーティストの曲をレパートリーとして練習したんよ。まだその頃の日本ではブルースは流行ってなくてね。エリック・クラプトンのクリームや、ジェフ・ベック、ヤードバーズやらローリング・ストーンズから広がっていって、進化形のホワイトブルースバンドにジミ・ヘンドリックスが入って火が付いて。ボブ・ディランやらもアメリカでブルースしおるしね、バターフィールド・ ブルース・バンド。それで世界中がホワイトブルースになったんよ。ちょうどその頃、深夜にやってた『ザ・ビート』っていうテレビ番組を見よったら、フレディ・キングっていうブルースマンが出てきて。ギターの持ち方が違うのに衝撃を受けてね。音がすごく伸びるギターを弾きよるときに、顔がキューってなって。“おぉ! 顔で弾くんや!”って、また衝撃で。
ジョニー:はい! はい! そうですね! たしかに顔で弾いてますよね!

鮎川:そう。その頃あたりから、いろんなレコードが輸入盤で入ってくるようになって、それまで夢にまで見た、空想でしか聴けなかったブルースマンの音が聴ける様になったんよ。1968年、1969年あたりかな。それで、サンハウスを作ったときに、最初に買うてもらった鉄の弦のテスコのギターを持ち出して、アンプのボリュームを10にして弾いたら、最高の音で、いつまでも消えなくてさ。フィードバックするんよ。本当に最高だった。そこからテスコのギターを復活させてね。俺たちも、ウッドストック・フェスティバルの後、1970年に集まってサンハウスを結成したんだけど、柴山さん(柴山俊之)や、浦田(浦田賢一)や奈良(奈良敏博)に出会ったのは、ちょうど1968年、1969年あたりやったからね。
ジョニー:…すごい。ロックの歴史そのものですね。
鮎川:ギター始めてから10年くらいを一気に話したよ(笑)。
ジョニー:ありがとうございます! ありがた過ぎます!

――鮎川さんは、サンハウスを結成されたとき、やはり目標はメジャーデビューというところだったりしたんですか?
鮎川:いやいや。当時は誰もそんなことは考えとらんかった。自分たちのレコードを出すなんて、誰もそんなこと思ってないんよ。そんなこと出来るわけないやんって。空想のまた空想でしかなかったから。だから、俺たちは毎日中洲でアンプ繋いで演奏するのが最高なんよ。いろいろと実験したり、新しいレパートリーを増やしてみたり。レッド・ツェッペリンの曲をやってみたり、ジェスロ・タルちゅうバンドの曲をコピーしてみたり。1番のお手本は、フリートウッド・マックだった。
ジョニー:おぉ! ピーター・グリーンのですね!
鮎川:そうそう。フリートウッド・マックのレコードは全部聴いた。昔はね、みんなバンドが目指したのは、大好きなアーティストに近づく様に練習したり、技巧を高めたりすることだったんよ。サンハウスが結成した頃あたりは、その街1番のバンドっちゅうのがおったんよ。長崎やったらキャンディーズとか、国士無双やらシンデレラやらっていうのもおった。
ジョニー:あ、名前聞いたことあります!
鮎川:当時、福岡にもバイキングちゅうバンドがおったんやけど、福岡のダンスホールに行かなくちゃ聴かれんバンドで。200円くらいの入場料で、毎晩そこのダンスホールでライブしよったと。久留米にもダンスホールが3つも4つもあった時代やったからね。【めんたいロック】っていう名前が付いたのは、一つのシーンに火を付けるための戦略だったというか。地元とロックを結び付けるキャッチコピーだったんだろうけど。もともとあった言葉ではなかったし。みんなロックは同じやけ。ロックは個人のもんやけ。街のためにロックするもんやないから。みんな、“俺のロックが分かってたまるか!”ちゅう想いでロックしよるから。本当に分かり合えたのがサンハウスのメンバーやった。その頃は、レコード出して売れたいとか、そういうんじゃなくて、みんなただただ音楽が好きでやっとったけ。その場所で音楽をする。そういう時代やった。

――すごく純粋ですね。今の時代も、メジャーデビューや売れることだけを考えずに、ただただ自分たちの好きな音を鳴らしたくてバンドをやっているバンドもいるとは思うんですけど、やはり多くはメジャーデビューや大きな会場でライブをやることを目標としてるバンドが多いと思うんですよね。鮎川さんご自身は、全く“売れたい!”“売れる為に上京したい!”という想いはなかったんですか?
鮎川:そうなんよね。昔、よく遊んでいた海援隊が東京に行くことになったり、チューリップが一足先に上京して、イカした曲をレコードにして出したのを見て、正直、“ふ〜ん”ちゅう感じやったんよ。みんな、レコード会社が上京後の生活も全部面倒見てくれるっていう条件で行ったんやけど、俺たちはそんなんは嫌やったんよ。みんなで家に集まってレコード聴いたり、パワー・ハウスっちゅう須崎のロック喫茶に好きなレコード持って集まったりするのが楽しかった。みんなブルースのレコードを持ってくるから、集まり過ぎて、1ヶ月に一回ブルースコンサートをしたりもしたんよ。ちっちゃい共有が嬉しかった。1人で聴くのとは全然違うんよ。
ジョニー:あぁ、なんかすごくいいですね。そういうの憧れます!
鮎川:ものすごく楽しい時間だった。1972年頃に、高田渡やら、今、3KINGS(鮎川誠、友部正人、三宅伸治)っていうバンドで一緒にやりよる友部正人やら、泉谷しげるやら井上陽水やら、カルメン・マキ&OZやらも出て、地元のバンドもたくさん呼んで初めて福岡でロックコンサートをしたんよ。僕らももちろん出て、いろんなバンドのカヴァーをやった中で英語が普通の感覚やったから、とくに日本語で歌うことは意識してはいなかったんやけど、ちょうどその頃、『ニューミュージック・マガジン』とかで、日本語の歌詞という、言葉を取り沙汰されていてのもあって。フォークとかロックとか、いわゆるニューミュージックが商業的な音楽ビジネスとして成長した時代やった。ある日、柴山さんがレシートの裏に“俺の身体は黒くて長い 夜になったらぬけだして 手当りしだいにはいまわる 俺のあだ名は キングスネーク俺のあだ名は キングスネーク”って書いた歌詞を俺に渡してきて。お、いいやん! って思ったんよ。
ジョニー:おぉ! 「キングスネークブルース」ですね!
鮎川:そう。俺は、レッド・ツェッペリンみたいなリフから行こうと思ってたから、ピッタリはまるなと。それがキッカケで日本語の歌詞で曲を作るようになったんよ。
ジョニー:「キングスネーク・ブルース」が最初なんですか!?
鮎川:そう。「キングスネーク・ブルース」が最初。
ジョニー:すげぇ! すごい話聞いちゃいました! 感動です!

――鮎川さんは曲を作られるとき、詞先なんですか?
鮎川:うん、もちろん。今でもそうよ。歌詞で言いたいことが、100年経ってもカッコイイか見ないとね。曲は作れない。ブルースはとくにそうやと思う。“今日、辛かったね!”っていうことを言う為にブルースは有るからね。

ジョニー:そうですね。「キングスネーク・ブルース」から日本語の曲を作るようになったんですか?
鮎川:そう。日本語の曲を作るようになった時期から、東京のバンドとの交流も出来て来て、よく博多に来るようになって。福岡にも夢本舗ちゅうプロダクション(イベンター)が出来て、吉田拓郎とかを呼んだりしてた。夢本舗の人達もサンハウスを応援してくれていたのもあったから、よくイベントに呼んで
くれていて。トランザムっていう東京のバンドとのツアーを組んでくれてたりもした。1974年頃には、上田正樹とか、大阪からはウエスト・ロード・ブルース・バンドとか、名古屋からはセンチメンタル・シティ・ロマンスとかも来て。地元から発信していける時代がきた気がしたんよね。あの頃はそうやって地元でのテリトリーみたいなのがあったし、自分の家にレコードもいっぱいあったし、なかなか上京しようっていうところに頭がいかなかった。俺たちにもテイチクからレコードデビューの話が来たんやけど、当時の俺たちは地元から出る気持ちがなくて。そしたら、上京しなくても力になりたいって言ってくれて。ただ、レコーディングは、機材の関係や環境もあるから東京でやってくれって言われて。そんで、1975年に『有頂天』ちゅうアルバムでデビューしたんよね。
ジョニー:それは東京でレコーディングしたんですか?
鮎川:そう。マガジンハウスが入っていた音響ハウスでね。
ジョニー:その頃もレスポールカスタムだったんですか?
鮎川:そう。1969年のね。津和野(津和野勝好)が買ったギターやけどね。津和野は、その当時ずっと博多でハコ(専属のダンスホールで演奏するバンド)しおったんよ。津和野が買うたって聞いて、触らせてもらいに行って。カッコ付けて津和野よりも先に写真撮って(笑)。津和野はいつもそのギターを勝負せないかんライブのときに貸してくれとったんよ。『有頂天』のレコーディングで東京行くときも貸してくれて。だから、『有頂天』は、借り物のレスポールで弾いたんよ。その頃、俺はストラトキャスターを買うとったんやけど、自分が望んで選んだんじゃなくて、当時のマネージャーが探して来てくれたやつやって。ずっとそれで弾いてたけど、やっぱりレスポールの音が最高やって。その頃、ヤマハがSG85っていうギターを作ったんやけど、それをくれて。1974年からは、しばらくそれを使っていたかな。それもすごく良かったけど、やっぱりレスポールは別よ。全然違う。メンバーみたいなもんで。“あぁ、そういう曲好きなんやね”って、ギターの方が分かってくれて、その音を出してくれるんよ。
ジョニー:ギターが出したい音を分かって出してくれるんですね! すごい! でも、その感覚分かる気がします!

鮎川:うん。なったごとよ。俺の人生なったごと。結局、サンハウスのメンバーは、誰1人として上京は望まんかったけ、東京に行くことはなかったね。でも、テイチクから次の年にもレコードをもう1枚出したけど、なんとなく日本でのロックのブームが少し去って、仕事があんまり来んくなって。ロックも、裏には商売が潜んどるとこも少しはあるかも知れんけど、でも、やっぱりロックは商業ではなく、教えてくれるものやから、その後もずっとロックと出逢ったときと変わらず夢中になれた。やっぱりロックは特別やったね。
ジョニー:俺たち首振りDollsは、去年の6月に上京して来たばっかりで、やっと1年なんですけど、鮎川さんもシーナ&ロケッツで上京を選んだんですよね? それはどうしてですか?
鮎川:シーナのお父さんの一言がキッカケやった。“あんたの曲は、使い物になるのか、ならんのか。やってみるだけやってみらんね。娘(シーナさんのこと)をほんとに幸せにしきるんか、こぎゃんとこに居るくらいなら、一回、東京で勝負してみんね。「ビールス・カプセル」とか、痺れとるばい、わしゃ。俺たち夫婦もまだ若いけん、子どもは任せて、思い切り、スパッと勝負してみい!”って言うてくれて応援してくれて。シーナも本当に応援してくれて。“歌がいるなら、アタシが歌とうてやるよ”って言ってくれたから、“なら歌って”みたいなね。
ジョニー:それが結成と上京の経緯ですね!
鮎川:そう。それで、勝負かけに東京に出たんよ。シーナのお父さんが“精一杯やって来いよ!”って言った、その“精一杯”を、今もずっと心に置いてる。東京でやっていくって大変や。北九州やら久留米はどんだけ気楽か。“精一杯やるのは今やけ”“金をケチらんと、今、金使わんでいつ使うね! 今勝負せんで、いつ勝負するんね!”ってね。その言葉が背中を押してくれた。
ジョニー:シーナさんも素敵だし、シーナさんのお父さんもすごく素敵な方ですね。
鮎川:そう。本当にね。本当に感謝しとるよ。

OKMusic編集部

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