世界的演出家ルパージュに聞く~超大
作『HIROSHIMA 太田川七つの流れ』を
四半世紀ぶりに日本上演

自作に加え、オペラや、シルク・ドゥ・ソレイユ作品など幅広く手がける、カナダ・ケベック州出身の世界的演出家ロベール・ルパージュ。1990年代に創られた代表作の一つ『HIROSHIMA 太田川七つの流れ』が、オリンピック・イヤーの2020年、渋谷のシアターコクーンにて上演される。1995年シアターコクーンでの日本初演以来、25年ぶりのお目見えとなる。前回の日本公演の際はワーク・イン・プログレスの5部作だったが、今回は完成版として上演時間7時間の7部作が上演されることとなる。この完全版上演への意気込みを鬼才ルパージュに聞いた。
【動画】Bunkamuraシアターコクーン『HIROSHIMA 太田川七つの流れ』スポット映像

――1990年代に創られ、20世紀のさまざまな悲劇が取り上げられた今作に、21世紀の今、改めて取り組もうと思われたのは何故ですか。
私が芸術監督を務めるカンパニー「エクス・マキナ」は、2019年9月、ケベック州ケベック・シティに新しい劇場「ル・ディアマン(Le Diamant​)」をオープンしました。この劇場では、新しいクリエーションを行なっていくと同時に、カンパニーのレパートリーを紹介していくことを柱にしています。そして、劇場のこけら落とし公演において、エクス・マキナにとって重要なレパートリーである『HIROSHIMA 太田川七つの流れ』を上演することを考えました。
2020年は、広島に原爆が投下されて75年という節目の年に当たります。以前シアターコクーンで上演した際には、原爆投下から50年目の年でした。そして、この作品で取り上げられているさまざまな悲劇、原爆投下や、第二次世界大戦中のユダヤ人の強制収容所の問題、エイズの悲劇的な流行などは、残念なことに今の若い世代にとって忘れられたこと、語られないことになってしまっているように思うんです。また、『HIROSHIMA 太田川七つの流れ』には、日本人、オーストリア人、フランス人など、さまざまな国籍のキャストが出演しており、その意味でも、劇場で今後上演していきたい作品のイメージに非常に合った作品でした。
――さまざまな日本文化がちりばめられた作品でもありますが、そもそもの着想からおうかがいできますか。
私は1992年、東京グローブ座の招聘で初めて日本を訪れました。シェイクスピア作品を取り上げるプロジェクトの一環でした。一週間程度の短い滞在でしたが、国際交流基金(Japan Foundation)​に京都と大阪、そして欧米人として広島も絶対に行きたいと希望を伝えました。行く先々でガイドの方々がついてくださったんですが、グローブ座の招聘ということで、シェイクスピア学者の方もついてくださって。広島では、もうご年配でしたが、シェイクスピア学者の安藤貞雄先生(1927-2017/広島大学名誉教授)がガイドしてくださいました。少し経ってから、彼自身が被爆者であることを知りました。そして、非常に興味深かったのは、原爆投下について語るにしても、シェイクスピアがご専門ですから、シェイクスピア的アプローチで語ってくださるんですね。私が演劇人であるということで、そういう話し方をしてくださったんだと思いますが、一つ一つ、エピソードとして語ってくれる。それを聞いていく中で、非常に感銘を受け、心を揺さぶられました。
原爆投下とは想像を超えるような大きなテーマであり、広島に足を運んだ欧米人は広島平和記念資料館に行き、ドキュメンタリー的なアプローチで原爆について知るわけです。けれども、私は、シェイクスピア学者の方から原爆をめぐるエピソードが語られるのを聞くという経験をしたわけですから、それは資料館を上回る衝撃でした。ケベックに戻り、新しいクリエーションのテーマを探すということになったとき、ヒロシマについて語る上で、一つ違った方向があるのではないかと考えました。実際の被害者や広島に住んでいる人以外の人もこの悲劇に共感できるような語り方があると思ったんです。それで、太田川のイメージを選びました。
広島を流れる太田川は、今では支流が6つになってしまったようなんですが、当時は7つの支流に分かれていたんですね。広島で起こった出来事が一つあって、そのこだまが、7つの国、7つの文化へとどんどん広がっていく、そんなイメージです。そのアイディアをもとに、各エピソードを発展させていきました。無論、一日で書けるようなものではなく、クリエーションには何年もの時間を費やしました。即興のセッションをしたり、さまざまなことを試みましたね。最初のバージョン(3部作として英国エディンバラ・フェスティバルにて初演)は上演時間3時間半でしたが、次に、かつてシアターコクーンでも上演した5時間バージョンができ、入れたいエピソードをすべて入れたところ、最終的に7時間バージョンが出来上がりました。
――『HIROSHIMA 太田川七つの流れ』にも『蝶々夫人』のこだまが感じられますし、かつて来日公演のあった『The Blue Dragon』でも『蝶々夫人』や『ミス・サイゴン』といった物語における<西洋対東洋>の構図に対する今日的な視座を提起していらっしゃったのが非常に印象的でした。
他文化に入っていく際、まずは入り口があるところから入っていきますよね。ましてや、私が若かった1960年代、1970年代においては、アジア文化、日本文化を知る手立ては本当に少なかった。典型的な定番から入っていくしかなかったんです。プッチーニの『蝶々夫人』をはじめ、過去の人間が日本に興味をもって書いた、限られた作品しかなかった。そんな“定番”の情報をもとにイメージをある程度固めて、実際にその地に足を運ぶとショックを受ける、そんなことが起きました。広島についてもそうです。
欧米人が抱くステロタイプのイメージとして、暗く、壊れた街を想像していたところ、実際には、復興の成ったすばらしい街が広がっていた。官能的で美しい雰囲気さえあって、抱いていた偏見とまったく違った。認識ががらっと変わりました。そんな広島を目にして、従来の悲劇的イメージを語るより、復興やユートピア、新しい希望など、悲劇の後の物語を語る方が興味深いと思ったんです。それは、すべての悲劇のモチーフについて言えることだと思います。廃墟の中にうずくまって終わるか、それとも、そこから復興を遂げようとしていっているか、どちらを語るかですよね。
2019年9月ケベック公演より (c)Elias Djemil Matassov
――私自身も他文化について、同じようにステロタイプを入り口にして入っていくということをしているんだろうなということを思いますが、そんなステロタイプを乗り越える上で、劇場とは非常に大きな力を持ちうる場ではないかと思っています。
まさに、劇場とは、迎え入れる場だと思うんです。それは、観客を迎え入れるのみならず、他文化や他者のエネルギーを迎え入れることのできる場だと思っています。
――“映像の魔術師”の異名を取るルパージュさんですが、劇場空間で映像を使いこなす上で腐心されることは?
新しいテクノロジーや映像の使い手だとよく言われるのですが、演劇において私の興味が最初からそこにあったわけではないんです。興味があるのは、物語を語ることとセリフ、音楽なんですね。それらをどう見せるかと考えた場合に、ヴィジュアルや新たなテクノロジーを使うことを考えたんです。
音楽でも、見える音楽、視覚的な音楽とそうでない音楽とがあって、私は、あまりヴィジュアル的でない音楽を目に見えるようなものにする手助けをしてきたように思います。私が映像やテクノロジーを使うのは、物語がそれを必要としているときなんですね。これは、もともと演劇人としての私のアプローチが東洋的なのかもしれないなと思うところでもあるんです。
たとえば西洋と東洋で書き文字の違いということがありますよね。西洋は、アルファベットで、発音、音だけで書いていく。けれども、例えば日本では表音文字と表意文字とがあるわけで、音プラスイメージ、書いているだけでもうその中にイメージが発生している。そう考えると、欧米の演劇、特に英語作品では、テキスト、テキスト、テキストで、よく、喉から上だけなんて言われますよね。もちろん、それはそれでまた面白い。ただ私はやはり、テキストの中にイメージが入っていく、まるで日本語の書き文字のようなアプローチを好むんです。それはおそらく私の感受性が東洋的であることに起因しているのではないでしょうか。
――カナダで唯一のフランス語圏であるケベック州のご出身であるということは、ご自身の表現手法にどのような影響を与えていらっしゃいますか。
ケベック州出身のアーティストである場合、フランス語という言語だけにとらわれていると、他のカナダの英語圏地域はもちろん、国際的なアクセスが限られてしまうんですね。フランス語の市場は、フランス、カナダ、ベルギーなど非常に限られているわけですから。であればこそカナダのフランス語圏のアーティストは、ヴィジュアルであったり、ジェスチャーであったり、テクノロジーであったり、ダンスであったり、そういった表現方法に興味をもち、そこを発展させていかないといけない。カナダでも、英語圏で英語で書いている劇作家ならば世界中を市場にできるわけですが、フランス語圏となるとそうはいかない。だから、サーカスも含め、身体言語やヴィジュアルといったものを駆使していかなくてはいけない、そんな必要性が生まれてくるんです。
――オリジナル作品のみならず、オペラやシルク・ドゥ・ソレイユ、そして太鼓芸能集団「鼓童」の作品を手がけられるなど(<鼓童✕ロベール・ルパージュ『NOVA』>が2020年に世界に先駆け日本で初演予定)、さまざまなジャンルで活躍されています。常に数多くのオファーが舞い込んで来ていると思われますが、その中で作品選びの基準としてあるものとは?
一つ気づいたのは、サーカスでもオペラでも鼓童でもそうなんですが、私が興味をもつアーティストというのは、人間のあるがままを超えた存在だということなんです。観客が興味をもつのは、ごく普通の存在より、並外れた、途方もない存在だと思うんですね。たとえば、スポーツに対して全ての人が必ずしも興味をもつわけではありません。しかしオリンピックには多くの人が興味をもちますよね。スポーツ好きでない人までオリンピックに興味をもつというのは、オリンピックのテーマがスポーツだけではないからだと思うんです。人間が何かを超えていこうとすること、超越していこうとすることが、オリンピックのテーマとしてある。
サーカスもまたスポーツの要素を含みながら、それだけではなく文化芸術の要素もある。サーカスを嫌いな人ってあまりいないと思うんですね。というのも、サーカスにおいても超越が一つテーマになってきます。サーカスのアーティストは、あるがままの人間を超越していくこと、限界を超えていくということに挑んでいきます。それは、オペラやクラシック・バレエのアーティストにも言えることだと思うんです。人間存在を超越していくということを、それらのジャンルのアーティストは行なっている。そんな姿が私にとって非常にインスピレーションになりますし、限界を超えていこうとする姿が、人々に希望を与えると思うんです。そして、そこに私の興味がある。
鼓童もそうなんですが、鍛錬を行なうことで、限界を超えていってしまっている。オペラもサーカスも鼓童も、観終わって劇場から出てきたとき、観客が「世界にはこんなにも可能性がある!」という気持ちになれると思うんですね。そのことを、私はしばしば、演劇の役者にもわからせようとしているんです。演劇は、人間のあるがままの文化であるというか、その中にとどまってしまっていることが多いと思うんです。リアリズムの演技であるとか、まさにそんな感じですよね。日本の歌舞伎のように、並外れたこと、超越したことを、いかに演劇の分野でも行なうか、そうしたことをよく考えているんです。
――では最後に『HIROSHIMA 太田川七つの流れ』を楽しみにしている日本の観客へのメッセージをお願いします。
上演時間7時間の7部作なので、その観劇体験は一つの冒険であると思うんですね。他の作品を観劇するのとは違い、芸術的なマラソンに参加するような感じというか。テーマ的にも日本の方にとって非常に共感を呼ぶと思うのですが、日本の方のみならず、世界中の人々がヒロシマの悲劇に対して自分自身を投影することができる作品になっていると思います。同じことが、ヒロシマのみならず、近年の津波や台風といった悲劇にも言えると思うんです。ある一つの地域で起きた悲劇に対し、他の地域の人々も、何かしら自分自身を見出すことができる、そんな作品になっていると自負しています。ぜひご覧になってください。
取材・文=藤本真由(舞台評論家)

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