AIはどこまで人の心を動かせるのか―
― 表現者とAIの“共創”を探求する
ヤマハが描く新しいクリエイティブの

『A.I.は、どこまで人の心を動かせるのだろう。』そんな命題を掲げ、進行するプロジェクトがある。

2020年2月20日(木)から24日(月)の5日間、東京ミッドタウンにて開催される『未来の学校祭』。「アートやデザインを通じて、学校では教えてくれない未来のことを考える新しい場」をコンセプトにする本イベントで、先に述べたプロジェクト『Dear Glenn』が、今は亡きピアニスト、グレン・グールドの演奏表現を習得したAIシステムによるピアノ演奏を日本初披露するという。あの、グレン・グールドの演奏がAIで蘇る…?! 編集部ではクラシック音楽ファシリテーターでライターの飯田有抄氏とともに、このプロジェクトを進めるヤマハ株式会社へ取材を行った。本プロジェクトが掲げる「AIと人間の共創」、目指す未来とは? プロジェクトチームの想いをきいた。(編集部記)
ヤマハ株式会社 マーケティング戦略部の嘉根林太郎氏
■あのグールドがAIとして現れる?!
「グールドの生演奏」に触れたい、近付きたい……そんな思いを実現する新たなプロジェクトが進行している。それがヤマハのAI研究チームによる『Dear Glenn』である。
ざっくり説明すれば、グレン・グールド(1932〜1982)の演奏の仕方を学習したAIが、目の前のピアノで、グールドのような演奏をしてくれるというものだ。AIグールドは、独奏曲のみならず、共演者とのアンサンブルもできる。ヤマハの自動演奏ピアノのシステムを使っているので、鍵盤は自動で動き、グールドの姿形こそ見えない。しかしそこには20 世紀が生んだ偉大なる“異端児”の音楽や気配を感じることができるのだ。
「この『Dear Glenn』というAIは、グールドの行なっていた表現技法をアーカイヴしているので、楽譜データを読み込ませれば、どんな曲でも初見でグールド風に演奏します。ですから、グールド自身が録音を残さなかった曲や、当時は存在しなかった新しい曲も、グールドだったらこう弾いたのではないか、という演奏で聴くことができるのです。アンサンブルもけっしてカラオケ状態ではありません。マイクとカメラを活用し得られた情報、つまり、共演者の様子を『見たり』『聴いたり』しながら、テンポや強弱を操作して音楽作りをします」
そう語るのは、ヤマハのマーケティング戦略部の嘉根林太郎さん。AIエンジニアの前澤陽さんらと共に『Dear Glenn』の企画を進めてきた。
嘉根林太郎氏  撮影=福岡諒祠
グールドといえば、カナダ出身のカリスマ的異色ピアニスト。よく知られているとおり、独自の作品解釈に基づき、ユニークなテンポ設定やタッチにより、センセーショナルなまでに聴き手の心を捉え続けた。
録音技術やメディアの普及が目覚ましい1956年にレコード・デビューした彼は、1964年には一切のコンサート活動を停止した。自らの表現活動はすべてスタジオ内で行い、レコードやCDといった録音物の形で発信するという、ピアニストとしては異例の、ある種極端な方法を取った。
「テクノロジーに明るくメディアの活用に積極的だったグールドの姿勢と、現代におけるAIの開発とは親和性があるものと感じます。トロントにあるグレン・グールド財団からも、『Dear Glenn』のプロジェクトがグールドの意志を未来へと繋ぐものとして、理解とサポートを得ています」(嘉根さん)
では、実際にAIグールドはどのようにして作られるのだろうか。
「まずはグールドが実際に残した100時間もの録音を、楽譜と照らし合わせながら、解析をするという作業からスタートします。グールドは、ある特定のパターンのときに、どういった表現技法をおこなっていたのかを、AIにディープラーニング(複雑な判断ができるようになる深層学習)をさせるのです。グールドといえば、やはりあのユニークな表現です。独特なテンポ設定など、楽譜に書かれた情報からは極端に逸脱する表現がありました。そうした彼の独自性、つまり譜面にないところをいかに取り出していくかが重要になります。
残念ながら、もうグールドはこの世にはいません。録音にノイズがあって解析がうまくいかないところや、非常に細かいパッセージの奏法の解析については、グールドから影響を受け、彼をリスペクトしている現役のピアニストたち(フランチェスコ・トリスターノ、カナダ在住のプロ・ピアニスト、東京芸大の学生など)からサポートを受け、彼らの演奏から一部のデータを抜き出しています。ですから、グールドの音源データと、生身の人間による演奏データとをコンバインしてAIグールドを生成しているのです」(嘉根さん)
そうして生まれたAIのグールドは、昨年2019年にオーストリアのリンツで開かれた世界最大規模のメディア・アートの祭典「アルスエレクトロニカ・フェスティバル」で発表された。グールド財団のディレクター、リンツ・ブルックナー管弦楽団のディレクター、そしてトリスターノが登壇するパネルセッションは大きな反響を呼んだ。
「アルスエレクトロニカ・フェスティバル」の様子  Credit: tom mesic
パネルディスカッションの様子。写真右手が開発者の前澤陽氏。  Credit: tom mesic
聖フローリアン修道院で開催されたコンサートも大きな注目を集めた。AIグールドはトリスターノとの2台ピアノによる共演でJ.S.バッハの「フーガの技法」より「2台チェンバロのための鏡像フーガ」、リンツ・ブルックナー管弦楽団のメンバー(バイオリン、フルート)とともにJ.S.バッハのトリオ・ソナタBWV1038を披露。さらに独奏曲では、バッハと同時代の作曲家J.C.F.フィッシャーの組曲「エラート」、スクリャービンの「5つの前奏曲」op.74-1、そしてバッハの「ゴルトベルク変奏曲」より「アリア」を、満席の聴衆を前に演奏した。
AIグールドと二台ピアノを披露したフランチェスコ・トリスターノ  Credit: vog.photo
「フーガの技法」からスクリャービンの前奏曲までは、グールドが実際に録音を残さなかった作品である。また「ゴルトベルク変奏曲」は、グールドのデビュー盤および81年の再録音が不朽の名作として知られるが、あえて音源データをAIに読み込ませていないという。その上でのAIグールドの演奏を、人々はどう受け止めたのだろうか。
「『グールドのようだ!』と聴いてくれた方もいれば、もちろん『違う!』と感じた方もいることでしょう。AIの演奏が本物に似ているか似ていないか、そうした議論は当然起こりますし、意味のあることでもあります。ただし、私たちが本当に期待している展開というのは、そこではないのです」(嘉根さん)
■目指すのは、表現者とAIとの「共創」
AIが広く話題となり、人々の関心も高まる昨今。嘉根さんたち『Dear Glenn』のチームが目指しているものとは、何なのだろうか。
「私たちヤマハが目指していることは、グールドを墓から掘り起こして活動させようというのではなく、また昨今のAIを巡る議論の中で言われるように、人間の代替となって人から仕事を奪ってしまおうというものでもありません。
嘉根林太郎氏  撮影=福岡諒祠
グールドのような過去の巨匠の表現をアーカイヴィングしているAIが、現代を生きるピアニストをはじめとする表現者や聴き手に、新たなクリエイティヴィティを与え、さらに良い音楽を作るということに貢献したいと考えているのです。演奏家ないし表現者たちが、AIと「競争」するのではなく「共創」することで、新たな芸術が生み出されていく。そうした仮説のもとに研究を続けています。
カラオケのように人間が合わせるのではなく、AIの演奏も人に合わせ変化する。
AIグールドとの共演には、リハーサルを必要とするのだという。  Credit: vog.photo
芸術などの世界では、AIの技術開発はまだまだフロンティア状態です。しかし今後、技術の精度が上がっていけば、さまざまな芸術家たちの表現方法をアーカイヴィングしていくことが可能になるでしょう。それこそ存命のアーティストたちの表現を、後世に鮮明に残していくことができます。それはアカデミックな音楽研究分野や教育活動のシーンで活用されることになるでしょうし、音楽文化への貢献のあり方の一つになると考えています」(嘉根さん)
アーカイヴされるのはあくまでデータであるが、目の前でアコースティックの楽器が鳴らされる『Dear Glenn』のような取り組みは、ヤマハならではとも言える。
「音楽はどこまで行っても瞬間の芸術だと思うのです。私たちは楽器メーカーですから、やはり生の音楽の響きというところには重きを置いています。プロジェクトのコアな部分を担うのは楽器。そこが私たちの強みでもありますし、無くしてはならない部分だと思っています」(嘉根さん)
撮影=福岡諒祠
この日、実際にAIのグールドに演奏してもらった。ピアノはヤマハ C3X ENPRO。ポツポツとしながら独特の余韻を残すグールドのあのタッチで、「ゴルトベルク変奏曲」の「アリア」が紡ぎ出された。J.C.F.フィッシャーの作品は、勢いに満ちたポリフォニックの立体感が素晴らしい。スクリャービンの前奏曲では、残念ながらペダル操作のところまではまだAIのグールドは到達していないとのこと。それもおそらく時間の問題だ。さらなるディープラーニングと技術的な問題のクリアで、AIグールドはますますグールドらしさを深めていくのだろう。
AIグールドの演奏を聴いた人はきっと、いろいろなことを考えたり、誰かと語りたくなるはずだ。「本物に似ている/似ていない」の議論でもいい。さらなる展開に思いを馳せるのもいい。AIが芸術分野でどのように活躍するのかしないのか、そんなことを自分目線から想像し、何かを創造するきっかけにできたら面白い。
「私たちはどこか一つの方向性やゴールを決めてアプローチしていくというよりは、これからも人とAIとの共創を信じ、新しくよりよい未来の音楽文化にむけて、貢献していきたいと思います」(嘉根さん)
取材・文=飯田有抄 撮影(インタビュー)=福岡諒祠

『未来の学校祭』は2020年2月20日(木)~24日(日)まで。AIシステムによる演奏のほか、ドキュメントビデオのモニター上映、プロジェクトのパネル展示などを行うという。グールドの代表曲として知られるJ.S.バッハ 《ゴルトベルク変奏曲》(BWV 988)のほか、彼の未演奏曲の演奏も予定。この機会にぜひ、ご自身の耳で確かめてみてほしい。
Dear Glenn - Concert Film

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