ジャズ・ピアニスト山下洋輔に聞く~
歴代メンバー達やゲストらが集まりト
リオ結成50周年記念コンサートを開催

山下洋輔トリオ結成50周年記念コンサート 爆裂半世紀!』が、2019年12月23日(月) に新宿文化センター大ホールで開催される。ジャズ・ピアニストの山下洋輔(1942年生まれ)が率いたトリオの歴代メンバー=中村誠一(ts/1947生まれ)、森山威男(ds/1945年生まれ)、坂田明(as/1945年生まれ)、小山彰太(ds/1947年生まれ)、林栄一(as/1950年生まれ)の出演に加えて、彼らと交流のあったタモリ(1945年生まれ)、麿赤兒(1943年生まれ)、三上寛(1950年生まれ)らゲストも会場に駆けつけ、半世紀に及ぶ「山下洋輔トリオ」の軌跡を辿る祝祭が繰り広げられる。
フリー・ジャズの最高峰として音楽史にその名を刻む山下洋輔トリオは、今を遡ること50年前の1969年、アンダーグラウンド・ムーブメントの昂揚する新宿のジャズクラブ、ピット・インで産声を上げた。既成のルールに囚われない自由奔放かつ狂熱のサウンドは当時の若者たちを忽ちにして虜にした。早稲田大学でのバリケードに囲まれての演奏、筒井康隆赤塚不二夫らとの交流、奇才タモリの“発見”、全日本冷し中華愛好会の発足……等々、伝説的エピソードを次々と形成しながら、時にメンバー交代も経て、また海外進出も成功させつつ、その活動は1983年まで続いた。
このほど山下洋輔にインタビュー取材を敢行。トリオ誕生の経緯や年末の50周年記念コンサートのことについて、色々と話を聞いた。
■「3人で思いっ切り勝手にやってみよう」
── 今から50年前の1969年に、山下洋輔(pf)、中村誠一 (ts)、森山威男 (ds)による山下洋輔トリオの活動が開始されました。まずは、その誕生の経緯をお聞かせ下さい。
フリー・ジャズには手本がありました。1950年代からアメリカでやっていたセシル・テイラー(ピアニスト/1929~2018)。早い時期から拳(こぶし)打ちや肘(ひじ)打ち奏法をやっていた人です。それから、オーネット・コールマン(サックス奏者/1930~2015)。彼らの音は日本でも、1960年代に入るとジャズ喫茶に行けば聴くことができました。ただ、僕自身は当時、そういった無茶苦茶な音楽は駄目だ、近寄ってはいかんと思っていたのです。むしろ逆の、正しいミュージシャンであろうとしていました(笑)。
ジョン・コルトレーン(サックス奏者/1926-1967)が1966年に来日して、日本における最初で最後のコンサートを行ないました。それが完全にフリー・ジャズだったんです。サックスでガボガボー!って(笑)。「あのコルトレーンが、なんでこうなっちゃうんだよ」って、みんなびっくりしたものです。中村誠一も客席で聴いていて「何やってんのこいつら?」ってな表情で、疑問を呈してましたよ。僕はその時「ジャズというものは、みんなアドリブで勝手なことしてもいいんじゃないのか」なんて話をした憶えはあります。それでも僕自身がそうなるとは、まだ思ってもみませんでしたけれどね。
その後、1967年から僕は病気で約1年半ほど演奏ができなくなりました。療養を終え、1969年に新たに活動を再開することとなり、以前一緒にやっていたミュージシャンたちと集まって一度演奏してみたのですが、どうも今自分が求めている音楽とは違うかなと。もっと力強いもの、激しいもの、もっともっと速くて凄い表現の音が欲しい、と思うようになっていたんです。
その頃、ベースを担当する予定だった人が急に就職することになって辞めてしまい、さあどうしようか、となった。すると、ドラムの森山が「ベースは要らないんじゃないか」と極端なことを言い出した。彼は元々ベースが嫌いなんですよ(笑)。だから自然にそういうことを言うんです。僕には「ベース無しでもできるんだろうか?」っていう疑念も半分くらいはあった。けれど「この際、3人で思いっ切り勝手にやってみようか」と提案しました。
それまでに、メンバーそれぞれに色んな経験、つまり、そういった(フリー・ジャズの)音を聴いてきた積み重ねがあったんでしょうね。僕もその頃には、以前だったら「近付いてはいけない」と思っていた一連の音楽をほとんど聴いていました。誠一も「あの時のコルトレーン」って思い出して、パーッってやってくれたのかもしれません。最初のリハーサルから手応えがありました。後でオープンリールのテープで録ったものを聴き、「これ面白いじゃないの!」となった。それが僕らの音楽の始まりだったのです。
(PHOTO:田中サユカ)
──当時最先端だったフリー・ジャズが、日本のリスナーたちに強く支持されるだろうという確信はありましたか。
いや、リスナーが受け入れてくれるかどうか確信はなかった。でも、こういうの、他の人はやってないよねっていう自信はありました。他の人と同じことをやっても、つまらない。編成こそセシル・テイラー・トリオと同じでしたが、やっていることは全然違う。今までやられていることは一切やらない。ジャズの決まりも忘れる。そこでやりたいことだけをやってみたらどうなるかっていう音楽です。「これが俺たちの音楽だよ」って言える、自分たち特有の何かが欲しかったんでしょうね。僕ら3人共この音楽が面白くなり、「誰が何と言おうとも、これでやっていこう」という気持ちになりました。
そこで僕は、この音楽を携えて新宿のジャズクラブ、ピット・インに出たい、と思いました。当時のピット・インは、すぐ近くにニュージャズホールという空間も展開していて、そこに籠って演奏する特別なフリー・ジャズの一派もいました。そこは「これはフリー・ジャズだよ、特別な人しか来られないよ」という雰囲気が漂っていた。でも、僕はそちらを選ばず、みんながやってる場所でやりたかったんです。僕らの音楽は特別なものではないのだから、と。普通のジャズを聴こうと思って入ってきた人が「何だ、これは」って思ってくれていい。そういう出会いが欲しかった。そういう人たちの中には「あれ、こっちの方が面白いんじゃないか」と感じて、また来てくれる人がいるかもしれない。僕はそういう考え方でした。とにかく開かれたところでやる。ただし、やることは変えずに貫き通す。きっと誰かが振り向いてくれるはずだとね。
実際、最初はみんなびっくりしていた。「何をやってるんだあいつらは」と、お客さんもそれほど集まりませんでした。それから、ミュージシャンの先輩たちからも「洋輔、どうなっちゃったんだ、おまえは」っていうような反応がほとんどでした。それまで僕は、先ほども言ったように「そういう音楽はだめだ」という正統派の青少年でしたから……まあ“青少年”っていう歳でもなかったけれど(笑)。でも、それこそ渡辺貞夫(サックス奏者/1933~)さんのセッションに呼ばれるような経歴を持つ人間でしたからね。それをいきなり変えたのだから、驚かれるのも当然です。
(PHOTO:田中サユカ)
■日本フリー・ジャズの夜明け
──気になることがあります。ジャズ史を紐解くと、1965年に銀巴里で、富樫雅彦(ドラム・パーカッション奏者/1940~2007)さんのグループにより日本で初めてフリー・ジャズが演奏されたという記録があります。そこには若き日の山下さんも参加されていました。もちろん、後の山下洋輔トリオほどの振り切れたものではなかったと思いますが、その頃から山下さんの中にはフリー・ジャズへと向かう萌芽が既に生えつつあったように思えるのです。
日本初のフリー・ジャズが富樫雅彦のグループだった、ということを言われたのは、ジャズ評論家の相倉久人さんでした。コンサートの司会もされていて、ずっと僕らを見ていてくださった人です。そうおっしゃる理由は、その時の演奏においてジャズの決まり事のいくつかを破っちゃったからなんです。そのひとつは、コード進行をなくしたこと。それからソロには、今まではなんとなく決まった長さっていうのがあったんですが、それをもう考えなくていいよと。思いっきりやりたいだけやれっていうので。武田和命(サックス奏者/1939~1989)なんか10分以上吹きまくるとか、考えられないようなことをどんどんやりましたね。そういったことでいくつか掟を破りました。富樫が「それでいいよ」と言っていたので。だから、日本で初めてのフリー・ジャズだったと言っていいと思います。
──1967年2月には唐十郎主宰の状況劇場がピット・インで上演した『時夜無銀髪風人(ジョン・シルバー)』に、山下さんがピアノ演奏で参加。同年8月に花園神社に登場した状況劇場の紅テント『腰巻お仙ー義理人情いろはにほへと篇』でも山下さんがピアノを弾いていたという記録があります。劇団の資料によると前者には既に森山さん、中村さんの名も見えますが……。
いや、唐十郎さんと初めて出会った頃には、まだ森山、中村とはやってません。二人と始めたのは1969年からですから。
──そうでしたか。ちなみに花園神社では、山下さんは紅テントの中にピアノを持ち込み、最初に20分間ぐらい演奏して、その後は劇伴に回る、といったスタイルだったそうですが。
そうだったかもしれません。でも、お芝居が毎日変わるんですよ。それも、やる人のその時の感覚でね。台本にはない、ありえないような台詞を言っちゃったりして。あれは、ものすごくスリリングな経験でした。とても自由で、それこそフリーな考え方っていうのは、あの辺りからね、じわじわと僕の中に入ってきたんだと思います。その意味で、唐十郎さんとの出会いは大きかったなぁ。
(PHOTO:田中サユカ)
──山下さんはその後、病に倒れられましたが、療養中の1968年に『ブルー・ノート研究』という論文を執筆され、後に高い評価を得ることになります。それは或る意味で非常に丹念に綴られたジャズの基礎研究でした。ところがその翌年に、いきなり真逆のベクトルに振り切った形で山下洋輔トリオの音楽が出てきました。その対照的な両極端を繋ぐ山下さんの内面の動きが非常に興味深く感じられるのですが。
そうですね、後から考えると、たぶん何かがあったかもしれませんね。『ブルー・ノート研究』っていうのは、ブルー・ノートというブルースの音階が面白くて、ジャズをやっている者にしか捉らえられない見方というものを、じっくり腰を据えて分析してみました。手短にまとめて言っちゃうと、アフリカとヨーロッパがアメリカという新大陸で出会ってできた音楽がジャズなのですが、ブルー・ノートという現象に象徴されるのは、メロディがアフリカで、和音がヨーロッパということなんです。だから、ヨーロッパ音楽の観点から言うと、そこにはルールを超えて「これは間違い」って言われるような無茶苦茶なことがしょっちゅう起きているんですよ。でもそれがジャズの世界では、今までずーっと続いてきました。つまり、違うものが同時に存在してもいいよということ。そういう原理を発見したというか、それを確信したことで、僕の中で何かが起こったのかもしれません。当時はそれほど意識的ではありませんでしたが、今考えると明らかにそうですね。
だから今になって無理矢理に後付けで説明すると、ジャズというものは、メロディのところは、アフリカの節でなくても、すべて個人の勝手でやっていいんだと。その下にヨーロッパの和音がついてもいい。それを極端化すれば、肘打ちをしてもいいと。もちろん今のこれは、こじつけですよ(笑)。
(PHOTO:田中サユカ)
■山下洋輔トリオには「変な奴ばかりが集まる」
──今度のコンサートにはタモリさんがゲスト出演されます。1972年、渡辺貞夫のコンサートに同行していた山下洋輔トリオが、福岡のホテルの一室で乱痴気騒ぎをしているところに乱入してきた謎の男こそがタモリだったという伝説的な逸話はつとに知られています。そもそもは、そこで中村誠一さんが虚無僧の恰好で狂言のようなことをやっていたんでしたっけ。
あのときは誠一が、浴衣にゴミ箱をかぶって踊ってたんです。自分たちの部屋で、自分たちだけの打ち上げをしていました。他の誰が見てるというわけでもないのに、ただ仲間を楽しませよう、仲間に驚いてもらおう、仲間を笑わせようと、誠一がやってたわけですね。それに乗って僕たちも、訳も分からずに、各々真似をしていました。イヨーッとか、カッポンカッポンとか、そんなふうにね。楽器を持ってなくても僕らはそうなんですよ。それがあまりにうるさかったので、通りかかったタモリが我々の部屋を覗いてみた。当時のホテルはオートロックではなくて、普通にドアが開けられたんです。それで開けたら、誠一が浴衣姿にゴミ箱をかぶって踊ってる。この姿はすごいですよね。それを見たタモリが「あ、ここは俺の行くべき場所だ」と咄嗟に思ったっていうのがまたすごいことで(笑)。それで中腰で踊りながら部屋に闖入してきたという……それが始まりですね、タモリの。それで、東京に戻った僕が彼の面白さを言いふらしまわって。それで新宿の、みんなが集まる酒場にタモリが現れたっていう。
──赤塚不二夫さんや筒井康隆さんらの居並ぶ前で彼の芸のお披露目があり、それをたいそう気に入った赤塚さんがタモリさんを自宅に住まわせることになるわけですね。第一発見者の山下さんの功績は大ですが、最初にタモリを吸い寄せた中村誠一さんの存在も重要でしたね。また、トリオの二代目サックス奏者の坂田明さんもハナモゲラ語を発明したり、森山威男さんや二代目ドラム奏者の小山彰太さんも、みなそれぞれに怪しげな言語を駆使していたとか。何故、山下洋輔トリオにはそのような方々ばかりが集まるのでしょうか。
それはこちらが訊きたいくらいです(笑)。なんか変な奴ばかり集まるんですよ。「面白いね」ってゲラゲラ笑う感性が一緒なんです。それと、変な言葉を使うのはジャズマンの伝統ですよ。スキャットのシャバダバドゥビドゥバとか。それこそ昔の人はピアノのことをヤノピと言ったり、ラッパのことをパツラと言ってみたりね。それをまた、自身の本名が森田であるタモリが、なぜジャズミュージシャンとはそうなのかってことを分析したりしてね。とにかく我々は、そういう人間どもなんです(笑)。だから楽器を持てば、それはそれで面白くて、仮に誰一人聴いていなくても、俺たちは面白いよね、って言って演奏できるんです。
(PHOTO:田中サユカ)
──1972年にサックスが坂田明さんに、1976年にはドラムが小山彰太さんに替わりました。そこでは当然、音も変化しますよね。
メンバーが変わっても、我々がやってきたトリオの音楽のやり方は続くと、そういう考え方です。だから、小山彰太に頼んだ時は、今まで森山がやってきたようなドラミングを継承してくれということから始めました。それを、まずは引き継ぎながら、そこに彰太にしかできない独自のものを加えていってもらう。すると明らかに森山とは違う彰太のドラミングというのが出てくるんです。
世界中のどんなドラマーも「さあ、これからフリーだよ」って言えば、最初は叩き方が似るんですよ。とにかく右手は思いっきり早くシンバルを叩く。それで左手は、相手に合わせて色んなことをやっていくというような。大まかですがね。それでも森山には森山の叩き方、彰太には彰太の叩き方っていうのが、同じフリー・ジャズでも違ってくる。その辺を聴き比べるのもお楽しみかと思いますね。それはサックス・プレイヤーも同じで、とにかく何をやってもいいよって言ったら、あらん限りのでたらめを吹きますが、そのでたらめの吹き方というのも、一人一人違うんですよ。それが面白いと。
──演奏していて「これは良い」って思える基準とは?
それはもうその時に、面白いことが同時に起きていて、それを当事者たちが理解して楽しめるっていうことですね。どんな音を出されても、「ああ、それなら俺はこうやるよ」という反応ができることです。お互いにその瞬間に反応し合って作っていく音楽ですから。だから山下トリオのプレイヤーは、まずは「俺が、俺が」と言って出来るやつじゃないと務まらない。そのうえで周りの人と共に「自分もそうだけど、お前もそうなんだな」と理解して楽しむ。
──中村誠一さんが辞める時に、次のサックスの候補者に挙がったのが阿部薫(1949~1978)さんと坂田明さんだったと聞いてます。どちらも「俺が、俺が」的なタイプですが、最終的にチームワークを尊重する坂田さんを選んだというのは本当ですか。
ええ、本当ですね。阿部薫も何度か飛び入りしてトリオでやったことがありますが、とにかく始めたら止まらない(笑)。一晩中でも吹いちゃうんです。彼のことは尊敬しているのですが、僕はやはりグループで何か面白い音を作っていくっていうのが片方にありましてね。阿部の場合、そこが「ちょっと違うな」って思ったんです。「そういうことを考えるのはフリーじゃない」って言われれば、甘んじて「すいません」って言いますけどね(笑)。
(PHOTO:田中サユカ)
■「この面々が出れば、自然にあの頃が蘇る」
──今度のコンサートには、大駱駝艦を主宰する舞踏家で元・状況劇場の役者でもあった麿赤兒さん、フォークシンガーの三上寛さんもゲスト出演されます。かつて山下洋輔トリオの早大バリケードでの伝説的な演奏の実況盤『DANCING古事記』を自費リリースしたことでも知られる麿さんには、舞踏とフリー・ジャズのコラボを期待してよいのでしょうか。
そうですね。麿さんの舞踏は、僕もぜひ観たいですからね。
──ジャズもこの10年ほどでヒップホップやR&Bなどと融合するような動きがありました。「異なるものの共存」がジャズの本質であることを見抜き、ご自身も色んな他ジャンルとの異種格闘技を繰り広げてきた山下さんは、最近の若い世代をどう見ていますか。
お互い違うものを持ち寄って何か作るっていうのは、とてもスリリングで面白いことだと思います。そういうことを自覚してやってることが大事ですよね。何が起きてるかわからない、というのでは駄目です。自分たちは違う者同士で何か作ってるんだっていうことがわかっていないとね。ただ、実際に今の若い人たちが何をやっているのか、きちんと聴いていないので知識はあまりありません。若い世代で微かにつながりがあるとすれば、スガダイローという、僕を狙ってきた奴がおりましてね。そいつのやってることと、あとは菊地成孔。それと大友良英さんくらいですかね。
──菊地さんも大友さんも、恐らく山下洋輔さんや山下洋輔トリオの音楽がなかったら、今のような音楽には多分なっていなかったと思います。そういう長い時間をかけて、下の世代にご自身の影響が伝わってると感じることはありますか。
はい、ありますね。もしもそうであればね、それは本当に嬉しいことです。
──今度のコンサートも、若い人にも聴きに来て欲しいと思いますか。
それはやはり思います。「ああ、あいつか」と言って、懐かしさ半分で来られる世代の方々も多いであろうとはもちろん予想しておりますけれど、その際に20代の方も連れてきていただけると有難いです。
──今回の50周年記念コンサートには、かつてトリオに所属されていた歴代6名の方も一堂に会します。前回集まったのは確か40周年コンサートですが、それ以降、この方々と顔を合わせるようなことはありましたか?
この6人全員が揃うのは、まさしく10年ぶりです。個別では、ドラムの森山威男が年に一度、正月にピット・インで何日かやるというのがあり、その中の1日に僕を呼んでくれるっていうことがあったくらいですね。
──今回、どんな曲をやろうとか考えておられますか。
やはり当時やってたレパートリーで、これをやろうかあれをやろうかと。やる音楽はメンバーごとに思い浮かびますね。森山威男と中村誠一だったら「GUGAN」とか。坂田明と小山彰太だったら、「モントルーアフターグロウ」に入ってる「ゴースト」をやりたい。坂田が途中でわめき始める。あれは名人芸として僕も聴きたい(笑)。他にも、林栄一と小山がいたらこの曲、坂田と森山だったらこの曲といった、当時我々がプレイヤーの組み合わせで一番楽しかった曲を選びたいです。一度リハーサルをすれば、そうなるかと思います。もちろん中身については微妙に違いますよ。毎回勝手なことやってるわけですから。
──皆さんそれぞれに年齢も重ねて、身体的あるいは音楽的な変化もあるかと思われますが、そのあたりはいかがでしょうか。
それはもちろん、それぞれにあるでしょう。でも、こうやって久しぶりに出会う以上は、昔と変わりない音楽を目指します。そして、実際にそうなると思います。この人たちとまた一緒に音を出せるっていうのは、ものすごく楽しみで。何をやっても自分は自由だし、相手が自由にやることも全部受け止められるだろうし。そうやって、とても楽しい時間をコンサートで作り上げることができるっていう予想はすぐにできます。この面々が出れば、自然にあの頃が蘇るはずです。
(PHOTO:田中サユカ)
取材・構成=安藤光夫 インタビュー写真撮影=田中サユカ

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