『Flamingo』に棲む、米津玄師という多彩なる単色

『Flamingo』に棲む、米津玄師という多彩なる単色

『Flamingo』に棲む、米津玄師という
多彩なる単色

架空の空間さえも生々しく感じられる
メガヒットナンバー『Lemon』で は、この世に在るおびただしい人々それぞれの頭上に注ぐ普遍的な悲しみを謳った米津玄師。『Lemon』の延長線上に立つと思われた新作『Flamingo』。思いのほか、その情景は今の日本にはまず残存していない、ある種架空の空間だ。
がしかし、脳裏への浸透力-その生々しい感覚は、“命を賭けた遊び”への静かな歩行となって、リスナーを当惑させた。
高い文学性と下世話な情緒があいまった美学。
『Flamingo』は、遊女にひたすら貢ぎ続け、破産寸前状態であるにもかかわらず、それでも彼女を求める男の物語だ。
「侘しげに鼻垂らし へらへらり」には、実際に遊女を探してさまよっているというより、彼女に会うために長時間、長期間ほったらかしにされている、停止したままの時間が劣化する様が描かれている。
Flamingo
「もう帰らない」は彼女の部屋から一歩も出ず居座っているというより、この道を引き返さない―遊女を抱くまで金を払い続ける―限りなく強い意思表示だ。
ただこの言葉から“彼”の未来は、遊女の追っかけを断念しようと、継続しようとどう転んでも不安定であることは確かである。
そのあとのこの歌詞はかなり難解だ。金を払っているほうが「毎度あり」と言っているのだ。
米津玄師は『クランベリーとパンケーキ』でも「毎度ありがたし」という言葉を使っている。米津にとって「毎度あり」は“もうどうなってもいいです”レベルの捨て台詞なのか。
そして続く「次はもっと大事にして」から、“彼”は遊女と、ほんの少しの間、同じ空気を共有できたことが仄見えるが、それは「毎度あり」から、“彼”の精神状態をフラットに落ち着かせる内容のものではなかったことがわかる。
27歳の男の子が書くにはエロ度が深く、あまりにもしんどい。
この言葉から、“彼”はかなりの無理をして大金をはたいたのだろう。
一旦は彼女からの最高のおもてなしを受ける約束とりつけることができたようだが、「虚仮威し 口遊み 狼狽に軽はずみ 阿保晒し」で一転、彼女から足蹴りにされたようだ。
妙な展開になっていく歌詞
そして「半端に稼いだ泡銭 タカリ出す昼鳶」は、“彼”からぼったくった半端な大金を盗人がタカリに来たということだろう。不衛生だが華やぐ遊郭の匂いがするいい詞だ。
がしかし、その前の「愛おしいその声だけ聴いていたい」の表現が妙だ。「聴」には、遊女の甘い声というより、ある程度商品化された音を感じる。
さらに次の言葉はもっと妙だ。場面が吉原から突然某所イベント会場に飛んでいる。
そして歌詞の世界は二重三重とずれていく。これは「数学の平均点は60点。わたしは70点でした」という作文と同じロジックだろう。平均点と私の得点は別物だが、平均点には私の得点が含まれている。そして平均点と私の得点は数学のテストで結ばれている。
つまり、鼻を垂らしている人物とねこじゃらしを持っている人物は別人であるが、“ねこじゃらしを持っている事”は“鼻を垂らしている事”に含まれている。そしてその両者には遊女が関係している。
そしていよいよ私が気になった歌詞が登場する。遊女にとっても、就業元である楼主にとっても、栄光の最終ゴールは「身請け」だ。「見受けて」ではやはりおかしい。あえて「見受けて」となった理由として、1つは遊女本人が身請けに対して旨味を感じていない。
もう1つとして、遊女でも楼主でもない誰かが、彼女が身請けられて営業停止になることに反対している、今後も彼女が遊女という業務を継続することを強く望んでいると考えられる。
遊女は“彼”の裏A面の姿ではないか。
そこで肝となるのが、ここに描かれているテーマが、単に遊女に狂う男の姿だけなのかということだ。
遊女とは“彼”が貢ぐ女、“彼”を狂わせる女であると同時に“彼”自身でもあるのだ。“彼”はだらしなくダメな男と、一晩で大金を稼ぐ遊女の両A面の生活をしている。だらしなくダメな男は、“彼”の本質であり、幼いころから一直線につながっている人間「米津玄師」だ。
しかし一晩で大金を稼ぐ遊女は、ある日突然誕生した魔性のフラミンゴだ。この化け物とどう対峙するのか。「あの子」をどう扱うべきなのか。どう認識し、その本当の価値を誰がどんな形で認めてくれるのか。
ミュージックシーンもリスナーも「あの子」には甘い審判しか下さない。地獄の閻魔ぐらいしか「フラミンゴ」の見受けを託せる奴はもはやいない。つまり米津玄師は自分で自分の中の嘘を見破ろうとあがいているのだ。
『Flamingo』は米津玄師の今の姿を映し出している。というより、この先どんどん変わりゆく自分、恐ろしくなっていく自分、深い穴に入り込み、フラミンゴそのものに変貌するその前に、そのフラミンゴを追いかけている古い正気の自分の姿を、動かぬ証拠として残そうとしているのだ。
彼にとって古い「米津玄師」は醜く恥ずかしい存在であるが、遊女として鮮やかに踊るフラミンゴとしての「米津玄師」も隠したい、見せたくないものなのだ。
この両者は米津玄師の中で対等なものではなくなっている。古い「米津玄師」はフラミンゴにどんどん飲み込まれていく。
彼はフラミンゴと対等な立場で腹を割って「もっとちゃんと話そう」としている。そのため、今夜も自分自身を追いかけて、乱れた外八文字でこの世界を徘徊しているのだ。
そしてこの私自身も「米津玄師」の正体を探しに、このミュージックシーンの闇の中を這いずり回っているのだ。
TEXT 平田悦子

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