【藤津亮太の「新・主人公の条件」】
第3回 「どろろ」百鬼丸

どろろ (c)手塚プロダクション/ツインエンジン なにか足りない部分を抱えていて、そこを埋めようとする。神話から現代の物語まで続く典型的な主人公像だ。1967年から連載が始まり、今年、半世紀ぶりに2度目のアニメ化がされた「どろろ」。その主人公のひとり、百鬼丸はその典型といえる。

 醍醐の国の領主、醍醐景光は自らの願いのために生まれくる子供を鬼神に捧げる。その結果、生まれてきた子供は身体のさまざまな部分を欠いていた。景光はその子を忌み子として川に流す。不完全な体で捨てられた子供は、やがて義手義足などで体を補い、百鬼丸と名乗るようになる。体のあちこちが作り物で、まるで人形のような百鬼丸は自らの身体を取り戻すため、鬼神を倒す旅に出る。
 人形のような百鬼丸が自分の体を取り戻していく過程は、手塚治虫が「鉄腕アトム」や「ブラックジャック」のピノコなどで描いたピノキオ・テーマの変奏でもある。今回のアニメはそこに自覚的で、たとえば第1話では顔に皮膚がないため仮面をつけている百鬼丸が描かれ、人形らしさを強調した状態から物語を始めている。その後の戦いのシーンでも、義手義足ならやられても大丈夫という、人間らしからぬ部分を強調して描いている。
 では、欠損部分がすべて戻れば百鬼丸は“人間”になることができるのか。
 原作や旧アニメの百鬼丸は、その心は十分に人間として描かれていた。それに対し、今回の百鬼丸は、身体の欠損故に五感も奪われており、その心はまるで生まれたての子供のように未成熟・未分化の状態として描かれている。この心が変わらなければ百鬼丸は真の意味で人間にはなれない。本作が巧みなのは、体の部分が戻ることを通じて、百鬼丸の心がどう変化していくかを丁寧に描いているところだ。
 ただし、それは百鬼丸を単純に幸せにするわけではない。第4話で、耳が聞こえるようになった百鬼丸が、初めて耳にしたのは、兄を殺された少女の慟哭だった。第5話では、少女ミオの歌が百鬼丸の心に届くが、そのつかの間のやすらぎもまた奪われてしまう。その時、百鬼丸は悲しみと怒りを知る。戦乱の時代、人の世が地獄ならば、人になるということは心に傷を負いながら生きるということを受け入れるということなのか。本作はその部分にしっかりと足を踏み入れて見ごたえがある。
 こうした原作を深める描写の一方で、百鬼丸にまつわる設定で原作・旧アニメと大きく異なっているものがある。それは醍醐景光が百鬼丸を鬼神に捧げた理由だ。
 原作や旧アニメは「天下をとるという野心のため」だが、本作は「天下をとるため国を豊かにする」という願いに百鬼丸は捧げられた。つまり本作の百鬼丸は、親のエゴの犠牲ではなく、国(とその民)の幸福のために捧げられた生贄、という側面も持たせられているのだ。国の幸福と、生贄が人間性を獲得し幸福をつかもうとすることは両立することができるのか。ここに焦点があたる時、ピノキオ以外の観点から百鬼丸の主人公の条件が明らかになるはずだ。そして、そこで鍵になるのはもうひとりの主人公、どろろのはずだ。

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