実況のプロ 清野茂樹が語る「話芸と
しての実況」 クラムボン・ミトとの
イベントで何を見せるか

プロレス実況で知られるアナウンサーの清野茂樹とクラムボンのミトが面白い試みを動かそうとしている。2019年3月22日(金)、東京・青山のライブハウス『月見ル君想フ』で行われるのは『ミトが即興で曲を作っていき、それを清野が実況する』というライブ。「作曲」「即興」「実況」という交わらなさそうなキーワードが渾然一体となるこのイベント、なぜこのイベントを行おうと思ったのか?そこには清野の考える“話芸としての実況”があった、清野から、言葉を操るプロとしてのこれまでと、その矜持を聞いてみた。

――プロレス界ではその名が知れ、さらに今や「実況芸」を広く世に届ける清野茂樹アナウンサーですが、そもそも実況というものに興味を持たれたのはどんなきっかけだったのでしょうか。
古舘伊知郎さんに憧れたことがきっかけですね。小学生のときにプロレスの中継を見ていて、「古舘さんカッコいいなぁ」と思ったのが最初の動機ですが、プロレスラーになりたいと思ったことは一度もないんです。これは無理だ。こんなのは絶対にできない、というのは思ったんです。それでしゃべる方で盛り上げたい、という気持ちはずっとあったんです。小学校2年生のときに初代タイガーマスクを好きになってプロレス中継を見るようになったんですが、見ているうちに僕の意識はどうしても実況中継をする人へと向かうというか。その真似事をするようになっていました。学校で同級生たちがプロレスごっこをやっていましたが、そこで実況をするのが僕の役割でした。
――では子供の頃から実況アナウンサーを目指していらしたんですね。結果として広島エフエム放送に就職されていますが、就職活動ではどのようなことをされていたんですか?
放送局という放送局を受けました。でも全く受からなかったんです。最初に首都圏から募集が始まったんですが、採用試験にさえ辿り着かないんです。履歴書を送っても、ハガキが一枚来て「今回は落選です」。面接にも行けないのか…!という世界でした。僕も研究が足りなかったんですよね。
――厳しい現実が立ちはだかった感じですね。
受けたら試験に行けるんだろうと思っていたら、そうでもなくて。思いのほか難しい世界に足を突っ込んでしまったな、と壁にぶつかり、もう諦めようかと思ったときにたまたま大学の就職課の掲示板に「広島エフエム放送社員募集」という紙が貼ってあって、“アナウンス職”と募集もあった。試験地が半蔵門のTOKYO FMであったんです。東京で受けられるし、その日はたまたま空いていたし送ったら、書類審査に通ったんですね。当時の僕はどこに行っても「プロレスの実況がしたいんです」と言い続けていたんですが、そんなアナウンサー、どこもいらないんですよ(笑)。そこに気づいていなかったんです。相手にされない。でも広島エフエムでは「出来るの?」って踏み込んでくれたんです。「できます」と答えたら「やってみて」とTOKYO FMのラジオブースの中に入れられて、そこでひとりで架空実況をしたんです。広島に行ったことはなかったんですが、その時点での直近の広島での名勝負である藤波辰爾と橋本真也のIWGPのタイトルマッチを実況したんですね。それで採用されました。
――その清野アナの実況デビューしたのはどんな経緯だったんでしょうか。
僕はラジオのアナウンサーでしたから、実況の仕事は全くなかったんです。会社の業務としては。だから自分でやるしかない!ということで、自分から仕事を作って実況をしていました。その最初は新日本プロレスでした。当時、新日本プロレスの営業マンが興行の1か月くらい前から広島に泊まってチケットを売り歩いていたんです。その頃も僕は当然、プロレスが好きだと言っていたので、僕のところにも「宣伝して下さい」といってその人が来るんです。だんだんそうやって仲良くしていくうちに、トークショーの司会が回って来るようになったんです。当時で言えば色んなレスラーが広島にやってきて、プロモーションをやる中で、そこでトークショーの司会を僕がやることが決まってくる。そんなときに営業マンと飲みながら、実は本当は実況がやりたい、という話をしたんですね。
――ある意味プレゼンですね。
大相撲とかJリーグの試合会場などで、会場内だけで電波を流すミニFMというのがあって、訪れた人が周波数を合わせれば実況中継が聞ける、というものがあるんですが、それをプロレスの試合会場でもやりませんか?とお話をしたところ、いいですね、と先方もおっしゃって。「企画書を作って下さい」と言われたんです。今でも憶えていますよ。その言葉を聞いてすぐに会社に戻って、パソコンを立ち上げて企画書をすぐに作って、新日本プロレスに提出したら、「やりましょう」と即答で。それで広島の大会でリングサイドに放送席を作って、僕が実況をする。その様子が館内でラジオを持ってきた人が周波数を合わせて聞ける。それが僕の実況デビューです。
――広島のラジオアナウンサーから実況アナウンサーへ。
当時、新日本プロレスもお金を出してくれたので、それを会社へと収める形で、会社の業務として実況が出来ましたし。実は誰にも頼まれてないんです。お願いされたわけではなく、自分が「やるんだ」と始めたことでデビューをしたんです。その後も新日本プロレスの大きな大会であるG1 CLIMAXの東京・両国国技館3日間の興行でも館内でのFM放送をやりたいから来てほしい、と依頼を受けて、新日本プロレスからお金も移動宿泊のお金も出て呼ばれて実際にやったんですね。さらに翌年、大阪府立体育会館でのスカパー!の中継にも広島から呼ばれたんです。広島の人間が東京に呼ばれたり、大阪に呼ばれたりしていたんです。これは東京でやるチャンスなんじゃないかと思うようになりましたね。
――そうして広島から東京へ。
広島に骨を埋める気はなかったんです。ここでアナウンサーとして修行をして、いつか俺は東京で実況アナウンサーをやるんだ、と思っていましたから。ある程度、時間を経て来るとやはり立場も昇格していくんですよ。このままいくとプロデューサーになってしまって現場を離れていくことになっていくだろう、というときに、当初の目標でもあったプロレスの実況の夢も叶えたし、もう辞めよう、と思ったんです。この機会に東京に出て、プロレスの実況をやってみよう、と。ところが東京に出て来たら、プロレス人気が冷え込んでいた。やはり地方は東京での現象がちょっと遅れて来るんですね。広島はまだそこまで冷え込んでいなくても、東京はその先をいっていて。物凄く冷えていたんですね。あれはビックリしましたね。最初に新日本プロレスに「東京に出て来ました」とご挨拶に行ったときの後楽園ホールに、あまりにも人がいなくてビックリしました。試合も盛り上がっていなくて。2006年の1月のことでした。
――その時代をご覧になってきた清野アナから見ていて、現在の人気はどのように映っていらっしゃいますか?
よくぞここまで、という想いですね。当時からいて、今も頑張っているレスラーに対しても「よく頑張った!」と思います。それと同時に、その時代を知らない人も入って来ていますから、うらやましいですね。
――そんな中、清野アナはここで培ってきた実況を「実況芸」というひとつのエンターテイメントにされました。様々なジャンルの方とのコラボレートをしていかれますが、そのきっかけになったことはあったんですか?
演芸の世界の人と触れ合うようになったことがきっかけですね。2016年くらいに、落語家の方や講談師の方とお仕事をする機会に恵まれて、「これはいい世界だな」と感じたんです。しゃべって、話を聞かせて、お金をもらう。話芸の力みたいなものを感じたのはあります。これは実況でも出来るんじゃないか、と。伝統芸能は何百年単位で続いてきたものだからある程度確立したものがあるんですが、実況というスキルはラジオ放送が始まってからだから話芸としての歴史は短いし、世の中の評価も低いなと思ったんです。これは放送だけではなく、ひとつの話芸になるんじゃないかと思ったのが始まりでした。
――そこでどういった方とコラボレートをされたんでしょうか。
2016年は落語家の立川吉笑さんや講談師の神田松之丞さんと二人会でご一緒させてもらったんです。それぞれ15分なり20分なりをもらうんですが、そこで実況だけでお客さんを満足させるというのは難しいことなんですよね。基本的に実況は試合があってそこに音をつける。でもその試合がなくなったときに実況だけで聞かせるって実は結構大変なんです。遡ると古舘さんが「トーキングブルース」でやっていらっしゃるのだから、お手本にしてやってみよう、と。だから演芸の人たちと古舘さんの存在があるからこそ、話芸としてクリエイトできたんだと思います。
――そこからプロレスの実況のみならずゲームの実況などもされるようになられた中、昨年はSKY-HIことAAAの日高光啓さんのラップを実況されました。こちらの手応えはいかがでしたか?
ラップの人とやりたいというのがずっとあったんです。ラップもまた即興の話芸だと思うんです。音楽ですけど、フリースタイルで、その場で考えて韻をつけて言葉を出すのは実況に近い。これは相性がいいなと思っていたんですね。それで相手を探していたときにちょっと前にお仕事をしたSKY-HIさんにお声をかけたら快諾してくださって。評判も良かったです。お客さんにも見せる。音楽とかラップを作るところってあまり見せないものですが、みなさん、興味があるんですよね。なので、ラップとの話芸同士は観客のみなさんに非常に喜ばれました。
――そして今月はメジャーデビュー20周年となるクラムボンのミトさんが作曲をする模様を実況されるイベントを開催されます。こちらはどんなイベントになるのでしょうか。
ラップに続いて音楽もやりたい、と思っていたらミトくんがやりたいと言ってくれたので、お願いしました。コラボレーションをやる中で彼は「サウンドクリエイターとして出演したい」ということだったので曲を作る過程を実況するなら有りだ、と彼の提案もあったのでこの企画になりました。何の曲を作るか、という話になったときに僕のフィールドに寄せてくれたんでしょうね。架空のプロレスラーの入場テーマをその場で即興で作る様を僕が実況しよう、ということで決まりました。あとはクラムボンの曲「パンと蜜をめしあがれ」もアレンジを変えてその場で作ります、とのことで。クラムボンの曲も作るけど、プロレスの入場曲も作るんです。そこで出来た入場曲を、来場者にお配りすることにしました。
――そんな清野アナが実況をする上で常に意識されているのはどんなことでしょうか。
仮に困った状況であっても、その困った状況をも全てが実況なんだ、ということです。たとえば突然「これを実況してください」と言われ「困ったな、これは無理だな」と思ったなら「こんな無理難題を言われて困っています」ということを実況する。自分の心象を実況するんだ、ということは思っています。目の前の事象を実況するのには限界があるので、その事象プラス心象、自分の想いですね。思ったことは全て言葉にすること、ですね。でも「これは無理でしょう」ということの方がやり甲斐はありますよね。強引になにかに例えたり、全然違うようなジャンルから引っぱってくるのも面白い。「この例えはさすがに無理があります」ということまで実況してしまう。普通の実況は試合を実況するんですが、試合と関係ないことも実況するのがひとつ実況の醍醐味というか。最終的には自分の話をするというところが終着点なんじゃないかと思っています。でもそこまではなかなかみんなやらない。試合が基本第一。“アナウンサー額縁理論”と呼ばれますが、その額縁が主張をしたらそれが聞いている人の意識にも残るんだと思っています。
――そんな清野アナというミトさんを囲う額縁の主張を楽しみにしています!
ステージで実況をするって何ですか!?と思われると思いますが、本来テレビ番組でナレーションで処理をするところを生で実況をつけます。僕の音楽の知識なんて限界がありますから、そこを離れてわけのわからないことも言うと思うんです。それも含めて音楽の出来る瞬間を楽しんで頂ければと思います。あとはソロのコーナーもあるので、僕のパートでは平成という時代が終わるので、「平成」の額を出すまでの故・小渕官房長官を架空実況しようと思っています。ご期待ください。
インタビュー・文:えびさわなち

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