和田京平レフェリー、木原文人リング
アナが【ジャイアント馬場さんの思い
で】を語る!

『ジャイアント馬場没20年追善興行~王者の魂~』が2月19日(火)、両国国技館で開催される。これに先駆けて、和田京平レフェリー、木原文人リングアナによる対談が行われた。
――ジャイアント馬場さんが亡くなって、この1月31日で20年が経過しました。あらためてどういう思いでしょうか。
和田「馬場さんのいない20年というのも信じられないんだけど、馬場さんがいたときの20年と、いなくなってからの20年は俺からすると全然違う。馬場さんがいない20年が“普通の20年”で、馬場さんがいた20年は“特別な20年”なんだよね。20年なんて、ホントあっという間。馬場さんが亡くなって20年なんて、来るわけないと思ってたけど、来るんだよね」
木原「僕はリングアナウンサーとしてのキャリアが30年ぐらいなんですが、ということは、馬場さんがいない時代のほうが長くなっちゃったんですよね」
和田「ああ、そうか」
木原「僕にとっても、馬場さんがいた最初の10年ぐらいというのは、やっぱりスペシャルな10年でした。この20年の間にはいろんなことがありましたけど、紆余曲折の末に、それでもまだ「全日本プロレス」の名前が残っているというのも信じられないというか」
和田「でも、馬場さんが常々、俺に言っていたことがあるんだよ。「全日本プロレスは俺で終わらせる」って。だから、全日本プロレスは本当のところ、馬場さんとともに終わらせたかったんだよね」
木原「引退計画もありましたもんね。京平さんが喫茶店をやって……」
和田「馬場さんがお茶を飲みに来る」
――それは馬場さんのアイディアですか?
和田「そう。『オマエがコーヒー屋をやれ。俺がそこに飲みに行くからな』って。まあ、ちょっとおふざけの話だけどね」
――そういうのんびりとした引退後の生活を思い描いていたわけですね。
和田「恵比寿の自宅の近くの店を覗くたびに『おお、京平、ココはいいなあ』って、よく言ってたよね。馬場さんは、先が読める人だったから。『あと何年で、俺は車椅子だよ』ってことも言ってたよね。だから『そのあとの面倒は京平、オマエが見ろ』と。そういう考えだったから、元子さん(馬場夫人)のことも大事にしたというか。
――2002年10月の全日本プロレス旗揚げ30周年をひとつの区切りと考えていたようですね。
和田「うん。そこで終わりだったんじゃないかな」
木原「結局、三沢(光晴)さんをはさんで、00年6月からは元子さんが全日本の社長を務めましたけど、02年10月には武藤(敬司)さんにバトンタッチしましたからね」
和田「でも、そのあともみんなが全日本の看板を大事にしてくれて、今日まで全日本プロレスの名前は続いているわけだけどね」
和田京平
――そもそも和田さんはどういう経緯で全日本に入ったんですか。
和田「運送屋さんのトラックにいきなり乗せられて、朝方に目が覚めたら雪が降ってて。そこがどこだかも知らないで。『ここはどこですか?』『黒磯だよ』『黒磯ってどこですか?』。最初はそんな感じですよ。朝が来て、10時ぐらいになったら体育館のドアが開いて、『じゃあ、リングを作るぞ』と」
――トラックにはどうして乗ったんですか。
和田「仕事があるから乗りなさいって。プロレスのリングを作るなんて知らなかった。友だちの代わりだったんですよ。だから、その友だちが恩着せがましく言うんだよ。『俺がオマエにあの仕事を譲ったから、今がある』って。そいつにはよく奢らされたよ(苦笑)」
――いわゆるリング屋さんからスタートして、レフェリーとしてデビューしたのが74年。
和田「ある日、体育館にディスコミュージックが流れていてね。鼻歌をフンフンやりながらステップを刻んでいたら、馬場さんが『オマエ、リズム感がいいなあ。明日からレフェリーをやれ』と。それがきっかけですよ。でも、こんなに長くレフェリーをやるなんて思ってなかったなあ」
――テレビのプロレス中継はよく見ていたんですか。
和田「いや、あまり見てなかった」
――至近距離で初めて見たジャイアント馬場の印象は?
和田「でけえ、だよ(笑)」
――おそれ多い感じは?
和田「おそれ多いも何もないんだよ(笑)。みんなからすれば『プロレスラー・ジャイアント馬場』はそういう感じなんだろうけど、俺はプロレスをあまり見てなかったから、リングの上で動いている大きな人、ぐらいの感じで(笑)。馬場さんがどれくらい凄い人だっていうのが、わかってないんだよ。俺自身、イケイケでやんちゃだったから、馬場さんに文句を言われても『ハア、そうっすか!』という感じ。ひねくれてたよね。馬場さんだけじゃなく、ゴツイ体の外国人を見るのも初めてだった。まあ、毎日が面白かったよ。第1試合の佐藤昭雄対百田光雄戦を見ながら、俺が『あきおちゃ~ん!』って声を飛ばすんだよ」。
木原「サクラですね(笑)」
和田「そうこうしているうちに、俺がリング屋のリーダーみたいな感じになって。そこへ木原とかの若い衆が手伝いで来てくれるようになった。木原のような存在は、全国にいっぱいいましたよ」
木原文人
――木原さんは三重県伊勢市出身ですよね。
木原「地元には1年に1回、プロレスの興行が来ればいいほうなんですけど、あるとき、四日市の体育館でグッズの売店のまわりをうろちょろしてたんですよ、何も買わないで(笑)。そうしたら『おい、帰りにリングの片づけを手伝っていかないか』と声をかけられた。それがきっかけですね。団体の関係者と仲良くなったら嬉しいじゃないですか」
和田「伊勢では、興行をやらなかったなあ。馬場さん、言ってたよ。『伊勢で客が来るわけがない』って」
木原「最初はリングの手伝いだけなんですが、そのうちに信用していただけると、売店も手伝うことになるんです。僕がちょっと変わった生地のジャージを着て売店に立っていたら、馬場さんがジャージを引っ張って『この生地いいな』と。それが馬場さんとの最初の会話でしたね。
――木原さんは早くから「オヤジ」と呼ばれていましたよね。
木原「名付け親は、まだタイガーマスクだった三沢(光晴)さんです。顔がおっさん臭かったんで(笑)。そうしたら馬場さんも『おい、オヤジ!』と」
和田「そういうファミリー的な感じが全日本にはあったよな」
――売店では、ファンが購入したグッズに馬場さんがサインを入れてくれるんですよね。
和田「あれには2つの意味があるんですよ。ひとつは、グッズが売れると『ジャイアント・サービス』から僕らに売り上げの10%、お金が入るんです。だから馬場さんが『俺がサインをすることでグッズが売れれば、オマエたちの分け前が増えるだろ』と」
――なるほど。
和田「ジャイアント・サービスが80%、グッズのキャラクターになっている選手に10%、僕らに10%。『オマエたちの給料は安いけど、これで小遣いになるだろ』と」
木原「僕はある時期から外国人レスラーの担当になったんですが、シリーズが終わると最終戦の日本武道館で預かった10%分のお金を預かって、外国人が泊まっているホテルに行って渡すんです」
和田「馬場さん以外の選手とすれば、自分がサインをすることで自分のグッズを売りたいわけですよ。三沢が俺に『サインして売りたい』と言ってきたこともあったけど、『毎日、馬場さんがやっていることを奪ったらまずいだろ』と」
――サインを書くもうひとつの意味はなんですか?
和田「馬場さんいわく『俺のためになる』と。『なあ、京平。サインをもらってファンにならない人間はいないぞ。俺を応援してくれるぞ』って。馬場さんって、トシを取ってからまた人気が出たじゃないですか。以前は『もうやめろ!』とヤジを飛ばされていたけど、来る日も来る日も会場でサインをすることで、少しずつファンを増やしていった。あれも馬場さんの戦略だったんだよね」
木原「馬場さんだけ、さん付けで呼ばれるようになりましたからね」
和田 「俺なんかいまだに『あっ、京平だ!』だからね。この野郎、誰に口をきいているんだと(笑)。まあ、試合前にコールされたときにお客さんが『キョーへー!』と叫んでくれるのは嬉しいんだけどね」
――木原さんはどういう経緯で89年にリングアナウンサーになったんですか。
木原「ある日突然、馬場さんが『オヤジ、オマエはリングアナをやれ』と。僕自身はレフェリーをやってみたかったんですが、京平さんから『いつかそういうチャンスが来たら、喜んでその仕事を受けろ。1度断ると、2度とチャンスは来ないぞ』と言われていたので、やってみようと」
和田「馬場さんは観察力がすぐれているんですよ。木原はレスラーのモノマネもうまいし、人を笑わせることが好き。だから、マイクを持たせるほうがいいだろうと」
――日頃の姿から適性を見抜くんですね。
和田「観察力ということで言えば、ある日、グッズ売り場で小さい子どもが1000円札を握り締めたまま、しばらくずっと立っていたんです。でも、俺も含めて誰も気付かない。唯一、気付いたのが馬場さんで。『おい、京平。あの子の話を聞いてやれ』と。『なんでオマエたちは気付かないのかなあ。よく見とけよ』という馬場さんの言葉を、俺が若いスタッフに言うんですよ」
木原「馬場さんが、リングの器材を担いだことがありましよね」
和田「おお。あったねえ。馬場さんがリング作ったのは、後にも先にもあのときだけだな」
木原「滋賀の長浜の体育館だったんですが、いつもは午後2時ごろに会場入りする馬場さんが、あのときは昼の12時ぐらいで。まだ僕らがリングを作っている途中だったんですよね」
和田「そうしたら『俺もやるか』と。リングの土台になっている6メートルの材木を馬場さんも担いだんだけど、『オマエたちはこんな難しいことを毎日やってるのか』って驚いてたよね。レスラーは力があるから強引に担ごうとするんだけど、俺たちはヒョイとバランスよく担ぎ上げちゃうから。
和田京平と木原文人
――完成したリングの上で、リング屋さんたちがプロレスごっこをしているのを見たことがあります。
和田「だってリングアナもいる、レフェリーもいる。いないのはレスラーだけ。じゃあ、『今日はオマエは誰の役。オマエは誰の役』ってね」
木原「僕はだいたい投げられる役でした(笑)」
和田「木原はうまかったよね。そうしたら馬場さんが見てて、怒られるかなあと思ったら、大喜びなんですよ。馬場さんだけじゃなくレスラーみんな大喜び。『オマエたち、なんでこんなにうまいんだ?』って」
木原「そこからは『あれやってみろ、これやってみろ』という感じですよ」
和田「俺たちは毎日、練習風景を見てるから、うまいんですよ。ヘッドロックひとつ取ってもね。その日見たことを、次の日に俺たちが練習しちゃうんだよね。馬場さんが『ヘッドロックはこうやれ。ロープワークはこうだ』って言ってたよなあって」
――私にとっての馬場さんの思い出は手品ですね。地方のホテルのレストランで馬場さんと一緒に晩ご飯を食べたあと、コインを使ったマジックを披露してくれたことがあって。京平さんたちも、あの場にいましたよね。
和田「うん。馬場さんいわく『俺は那智の滝に打たれて修行したんだ。これはオマエらに分かるわけがねえ』って。わざわざ忍者のマネをしてね(笑)。まあ、手品のタネを明かすと『なあ~んだ』になるんだけど」
――馬場さんとテープルをともにするというのは、本当にぜい沢な空間でした。
和田「俺たちのことを可愛がってくれたよね。縁の下の力持ちじゃないけど、俺たちの大変さを知ってるから」
木原「もっと食え、食え」って」
和田「たまたまそのレストランにファンの人がいると、馬場さんが『おい京平。あの子たち、後楽園にいなかったか?』と。俺が『はい、プロレスファンです』と答えると、『帰りがけに、あそこの伝票も持ってこい』と。馬場さんがみんな払ってくれるんですよ。それで俺がそのファンのところに行って『馬場さんに今度会ったら、ごちそうさまって言ってくれな』とだけ告げて伝票を預かってくる。ファンはビックリだよね。そんなことは何度もありましたよ」
木原「同業者の人がいたときも馬場さんが払ってましたよね。たとえばK-1の方とか」
和田「人に払われるより、自分が払ったほうがいい。頭を下げて、ペコペコしてまで飯を食べたくない。それが馬場さんの考え方。『だから、俺は付き合いが下手なんだよな』とも言ってたけどね」
和田京平と木原文人
――思い出は尽きませんが、そんな馬場さんの没20年の追善興行が2月19日、東京の両国国技館で開催されます。もちろん和田さんはレフェリー、木原さんはリングアナウンサーとして参加されるわけですが、大会の見どころを教えてください。
木原「対戦カードは1月31日に出揃ったんですが、メインイベントでは新日本プロレスの不動のエース、棚橋弘至と全日本プロレスの三冠ヘビー級王者(宮原健斗)が激突することになりましたからね。宮原は絶好調ですよ」
和田「棚橋は、リングの中を楽しんでいる印象があるよね。逆に言うと、その楽しみ方を知っているのが宮原ですよ」
木原「棚橋選手って、実は全日本の京都・醍醐グランドーム大会で、リング作りを手伝ったことがあるんですよ」
――えっ?
木原「グランドームは天井が高いんです。そこに仮設照明を吊るそうとすると、天井の鉄骨に向かって下からヒモ付きのボールを投げて、まずそのヒモを鉄骨の上に通す必要があるんですよ。でも、誰が投げても天井までボールが届かない。それで手伝いで来ていた若い子に『兄ちゃん達の中に、誰か野球部の子いない?』と言ったら、『じゃあ、僕が投げます!』と手を挙げてくれたのが棚橋選手なんですよ。見事に投げてくれましたね」
――全日本のピンチを救ってくれた!
木原「アルバイトの人は当時、黄色の帽子を被っていたんですが、試合が始まって、スタン・ハンセンが『ウィー!』とやったら棚橋選手も一緒に『ウィー!』とやっちゃって。そうしたら、黄色い帽子を被っているから元子さんに見つかって、『バイトはやらなくていいの!』って怒られた(笑)」
――馬場夫妻との接点があるわけですね。
木原「大日本プロレスの関本(大介)&岡林(裕二)組が現役の世界タッグ王者なんですけど、彼らが巻いているインタータッグのベルトは、遡れば馬場さんが巻いていたものですからね。その辺も興味深いですね」
――特に90年代のプロレスを知る人にとって、第7試合の全日本対新日本の6人タッグマッチは見逃せないですね。
和田「それこそ90年代に実現していたら、東京ドーム級のカードだよなあ」
木原「ちょっとした対抗戦ですよね」
和田「試合としてまとまるのかなあ、という感じもあるね。レフェリー、大変だろうなあ。誰がやるの?」
木原「レフェリーとリングアナがどう配置されるのかっていうのも、マニアックな楽しみ方ですね」
――新日本のレッドシューズ海野さんも含めて、全日本出身のレフェリーが大集合するようですね。
木原「そういう意味では全日本プロレスの同窓会でもあり。出場する選手もオールスターであれば、レフェリーやリングアナの裏方もオールスターなんですよ。昭和と平成を網羅した一大ビッグイベントというか。ファンの人もその同窓会の参加者なんですよね」
――1枚のチケットで、ゲストも含めてこれだけの顔ぶれを一気に見られるイベントというのも、この先そうそうないでしょうね。
和田「外に面白そうなのが、第1試合のバトルロイヤルなんだよね。だって、レフェリーがマイティ井上だよ! 田舎に引っ込んだマイティ井上が久々に両国に現れたと思ったら、キム・ドクがいて、百田のみっちゃんがいて。何よりビックリするのは、ジョー・ディートンがいて。垣原(賢人)もいて。このバトルロイヤルだけでもおもしれえなあ、と思うよ」
木原「みんな馬場さんと絡んだ人たちなんですよね。今、学生プロレスがあるのは、80年代の終わりごろに馬場さんがMEN’ Sテイオーにプロレスを教えたからだし」
和田「俺が運転手で行ったんだよ。馬場さんが『学生がプロレスごっこをやっているんだよ。ちょっと見に行くぞ』って。そうしたら馬場さん、練習を見ているうちにいきなりリングに上がって、プロレスのイロハを教え出しちゃって(笑)。そこにいたのがテイオーですよ」
木原「テイオーがそこから広げていって、学生プロレス出身でプロになった選手はいっぱいいますからね」
――さまざまな形で馬場さんと関わったレスラー、逆に関わる機会のなかった若いレスラーが、それぞれ両国でどんなファイトを見せてくれるのか。一夜限りのプロレス大同窓会を楽しみに待ちたいと思います。ぜひ、19日(火)大会当日は皆さん、ベストコンディションで!」
(取材・構成/市瀬英俊)

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