浜田麻里

浜田麻里
ライヴ活動を行なうアーティストの拠点となるライヴハウス。思い入れ深く、メンタル的にもつながるライヴハウスについて、活動を始めた当時を振り返りながら語ってもらった。
もしかしたら、ここで初めて出る話もあるかも!?
浜田麻里

浜田麻里

浜田麻里 プロフィール

ハマダマリ:15歳でプロシンガーとしてのキャリアをスタート。大学時代に参加した女性ロックバンドMisty Catsで出場した『East West'81』でスカウトされ、1983年4月にアルバム『Lunatic Doll』でデビュー。数多くのコンサートツアーとコンスタントなアルバムリリースにより、本格派女性ロックヴォーカリスト、ヘヴィメタルの女王としての地位を確立。80年代後半にはメタルクイーンからの脱皮を図り、幅広いフィールドで魅力が発揮できるアーティストへと転身。デビュー35周年の18年には通算26作目となるアルバム『Gracia』をリリースするなど、精力的に活動を続けている。浜田麻里 オフィシャルHP

もともと“自分はライヴなんだ”
という感覚があまりなかった

人前でライヴをするようになったのはいつ頃ですか?

スタジオシンガーとして仕事し始めたのが15歳なんで、それ以前の子供の頃から人前で歌う機会は多かったですけど、ちゃんと意識したのは高校生になってハードロックバンドを始めてからで。ホームグランドということで一番記憶にあるのはヤマハの吉祥寺店ですね。Misty Catsっていう女の子バンドをやっていたんですけど、ヤマハの吉祥寺店を基盤に活動をしていました。ヤマハのお兄さんたちにいろいろ手伝ってもらったりして、そこの小さいライヴスペースに毎週出てましたね。

毎週ですか!?

毎週末にやってましたね。その時に…ハードロックの世界ですけど、寺沢功一くんとか横関 敦くんとかはほぼ同世代だったんで、しょっちゅう同じステージに立ってました。その後、デビューを想定しながらライヴハウスでやってた頃は、四谷FOURVALLEYとか渋谷のTAKE OFF 7、新宿のJAM…あっ、あれはMisty Catsでだ。新宿JAMではMisty Catsを私が抜ける前にコンサートをやりました。その隣にある病院の産婦人科で受付のバイトをしてたんで、そのイメージが強いですね(笑)。一緒に働いているおばさんたちに“隣でライヴをやるんですよ”とかそういう話をしたりしてました。でも、おばさんたちは隣が何なのかまったく分かってないみたいな(笑)。

ヤマハの吉祥寺店での思い出とかは?

ヤマハでは女の子バンドとしては人気もあって、数は少ないんですけどコアな男性ファンもいたりとか。あと、私は嫌いだったんですけど、他のメンバーが好きだったんで、よくコンテストに出ていました。そのヤマハでもやっていたんで何度も賞をもらったり、優勝したバンドを集めたオムニバスのアルバムを作る企画もありましたね。

当時はどんな想いでバンドをやっていたのですか?

バンドは完全に趣味でやっていて、プロとしてやる時は絶対にソロと考えていたので…メンバーとは今でも付き合いがあるくらい仲が良かったし、修学旅行みたいに楽しいバンドだったんですけどね。みんな才女で頭が良くて何でもできる人たちだった…私以外(笑)。なので、“このまんまみんなでプロに”という構想は私の中にはまるでなかったんです。だから、今でもよくその頃の話になりますけど、メンバーもそうですし、ヤマハのお兄さんたちも、当時から“麻里はそのままプロになる”と思っていたって。近くにいなくなっちゃうという気持ちがあったようです(笑)。

デビュー決定後はソロシンガーとして都内のライヴハウスを回られていましたが、ヤマハのステージに立っていた時とは気持ち的に違いました?

全然違いましたね。やはりプロとしての気持ちがありました。でも、デビューしてからはそんなにライヴハウスではやってないんですよね。一番初めに新宿ロフト…新宿ロフトがデビューライヴだったんですけど、お客さんがパンパンで。その後も横浜シェルガーデンとかいくつかやりましたけど、どこでもパンパンだったし、すごく熱狂的で…毎回、救急車を呼ぶ事態にならなくて良かったなという状態でした。なので、これは危ないっていうことで、そのあとのライヴは東京郵便貯金ホールになりましたから、ライヴハウスでやった期間は短かったんですよ。デビューが決まってからリリースまですごく時間があったから、その間にちょこちょこ…月イチくらいですかね? バックバンドを付けてもらってやってたくらいです。

デビュー後の麻里さんと言えば、学祭の印象も強いのですが。“学祭の女王”とも言われていたし。

それがそんなにやってないんですよ。なんで“学祭の女王”と呼ばれるのかなと思うくらい(笑)。すごく売れた時期に20校くらいやりましたけど、それまではそれほど多くなかったから“なんで?”って。あっ、でも初期なら京都産業大学だったかな。3曲で中止になって救急車が来ました(笑)。新聞にも載っちゃたんで、それだけは覚えています。

そのことが大きいんでしょうね。あとは中野サンプラザホールですかね。

そうですね。私は中野区で育ったからサンプラができた時から知ってるので、なくなっちゃうって聞いて(2024年度前後に取り壊し、建て替え予定)、とても残念に思ってます。

中野サンプラザで思い出に残っているライヴというのは?

1985年のアルバム『Blue Revolution』のツアーでの3デイズが結構自分の中で印象深いんですよね。今はいろいろお金もかけて派手な照明でやってらっしゃる方もたくさんいらっしゃると思いますけど、当時はまだそんなにない頃で。アメリカからトラスっていう照明を吊るす枠組みみたいなものを取り寄せて、照明をコンピューター制御で動かすということを日本で初めてやったんですよ。あと、20周年の頃の会場もサンプラだったし、節目節目でやっている記憶がありますね。

ライヴハウスからホール、アリーナ、さらには海外公演をするようにもなって、ライヴというものに対する考え方も変わっていきました?

その時代時代によって変わっていったとは思うんですけど、もともと“自分はライヴなんだ”という感覚があまりなかったんですよ。どっちかと言うと作品主体の人間だとずっと思っていて。きっと子供の時のスタジオヴォーカルという経験からきてるんでしょうけど、レコーディングが自分のベーシックな仕事だというのがどこかにあったんです。ずっとそういう気持ちだったんで、ライヴに関しては“観たい!”と言ってくれるお客様がいるのでやるっていう、作品プラスアルファ…より直接的な場のプレゼント企画みたいな印象だったんです。それは武道館でやるようになってもそうでした。1997年にライヴ活動を休止したのも…それもいろいろな理由があるんですけどね。正直言って、ツアーで苦しい想いをずっとしてきたんですよ。それこそ、こんな唱法なのに3連チャンやって1日休んで、また3連チャンとか。ガラガラの喉をどうしようっていうようなことをいつも考えてたから、そういうところで心がバーンアウトしてしまったというか。それはもしかしたら、ライヴに対する意欲があまりなかったからなんじゃないかって、今は思うんですけど。なので、ライヴが大事だと思い始めたのは2002年の再開後ですね。

そのきっかけというのは?

ライヴを休止している時に“なんでライヴをやらないんですか? やってください!”という声がどんどん強くなってきて、それで再開したんですね。で、サンプラザのステージに立った時に、求められるというのはこんなに大きなことだったんだと気付いたというか、そのやり甲斐をやっとそこで感じられたんです。そこからよりライヴというものを考えるようになったというのはあると思いますね。

そんな麻里さんがライヴをする時に一番こだわっているのはどんなことですか?

表現しているものはダークだとしても、来てくださったお客様に何かしらの活力を与える存在でいないといけないと思っています。なので、そう思っていただくだけの精神性と…体力も含めてですけど、そういう自分でいないといけない。具体的には、いくら歳をとってもできる限りの歌の力というのを維持していかないといけない。そこに付随してくるものあるし、それだけプレッシャーもあるんですけど。

毎回、麻里さんの歌のすごさに驚かされてますよ。

いやいや。歳をとればとるほどコンディションを整えていくのは大変なんですよ(笑)。

ライヴはお客さんのためにやっているという感じなのですか? 自分が楽しくやるというよりも。

私の場合は歌うことが天命ではあるんですけども、自分の欲求からじゃないような気がするんですよね。どなたかに提供させていただくためのものととらえているというか。アルバムの歌についてもそうですし、音楽についてもそうですし、ライヴについてもそうですね。

では、最後の質問になるのですが、今の麻里さんが吉祥寺のヤマハで歌ってた頃の自分に声を掛けてあげるとしたらどういうことを言ってあげますか?

う〜ん…“これから辛いよ”(笑)。

はははは。

冗談ですよ(笑)。まぁ、“そのまんまでいいよ”ですかね。でも、やっぱり女ひとりでしっかりやっていくのは大変ですよ。だから、後輩にあたるようなミュージシャンやシンガーにも思うんですけど、ある程度の能力があればデビューさせてあげたいと思う反面、愛情があればあるほどこう思っちゃうんです。“そんな辛い想いしなくてもいい。もっと幸せな人生あると思う”って(笑)。

OKMusic編集部

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