シンデレラに比喩される様々な物語とは?ジャニーズそれぞれのシンデレラソング

シンデレラに比喩される様々な物語とは?ジャニーズそれぞれのシンデレラソング

シンデレラに比喩される様々な物語と
は?ジャニーズそれぞれのシンデレラ
ソング

今回はその中でも、王道なものから変則的なものまで三曲を選んで紹介する。
テゴマスのシングル『アイアイ傘』のカップリング曲に、『僕のシンデレラ』がある。
テゴマス『僕のシンデレラ』
好きになった子が引っ越してしまうことを知り、想いを告げられないまま“君”は遠くへ行ってしまう、というお話になっており、失恋ソングとしての向きがある曲だ。
“話す機会探していたら いきなり君に呼ばれ うつむいたまま 小さな声
「あのね わたし引越しするの」 信じられない”

「好きだと伝える前にいなくなってしまった」というのは、シンデレラでは12時の鐘が鳴って王子様の前から姿を消してしまうシーンになぞらえていると言え、「いなくなってしまう運命の女性」の比喩と取れる。

この曲の中では、“僕のシンデレラ”がどこかへ旅立ってしまうところで終わっているが、この曲のメロディーは失恋ソングというには明るく、テゴマスのイメージに合った可愛らしい曲に仕上がっている。
歌詞の中のみでは再会するところは描かれていないが、童話「シンデレラ」の王子様のように、いつか彼女に再会してきちんと想いを伝えたい、という希望がこの比喩に込められているのかもしれない。だから“僕”が“走りだした”ところは描かれたのではないだろうか。たとえ彼女が乗った車に追いつけないと知っていても、伝えられなかった未練が“僕”にあることは強調されている。
“シンデレラ”という呼び名以外にそれらしきモチーフの登場しないこの曲だが、それは「この物語がここで終わりではない」という希望の見せ方だろう。
そのような見方も出来る程度には、一般的に「シンデレラ」とは最終的にハッピーエンドを迎える物語として知られている。そんな物語になぞらえた、王道のジャニーズシンデレラ・ソングといえばKinKi Kidsの『シンデレラ・クリスマス』だろう。
KinKi Kids『シンデレラ・クリスマス』

サビの歌詞だけでも“12時までのDream”や“ガラスの靴”など有名なモチーフが登場しているが、他にも端々に童話になぞらえた歌詞が組み込まれている。
Aメロでの“君は時計を見るたびに 哀しい色濃くして綺麗になる 不思議さ”というフレーズは、まさに魔法がとけてしまう時間を気にしながら王子様との逢瀬の時間が終わってしまうときのシンデレラや、そんな彼女を美しく愛しく想う王子のシーンを写し取るようだ。
この時計の描写は二番サビの“意地悪な時が 二人を引き裂いても”に繋がっていき、その後の“この愛は永遠” が直後の“指文字で無限大 描いて微笑う”に掛かっている。二人の心は確かに通じ合っているが、それでも別れの時間が訪れるのは寂しい。そんな恋人たちの憂いを描いた絶妙な詞になっている。

なぜ、「シンデレラ」をクリスマスで喩えたのか。それはシンデレラが「特定の時間だけ美しく着飾っている女性」だからではないだろうか。“12時までのDream”とは「クリスマスの日」ということだ。クリスマスにデートとなれば、普段以上にお洒落をする女性も少なくないはずである。クリスマスの夜に、彼女はガラスの靴を履いたような美しさで現れ、冷たい雪すら彼女を飾る華になる。まさに魔法のような時間というわけだ。
しかし、更に注目したいのは落ちの“ガラスの靴さえ ぼくたちにはいらない”というフレーズ。ガラスの靴は「シンデレラ」における重要な鍵だ。その役割といえば「シンデレラにかけられる最後の魔法」でありながら、同時に「王子様と灰かぶりを結びつける手掛かり」でもある。
落ちサビの前に“ごらん 雪がやんで星が瞬いてる”とあるのは、彼女の髪を飾っていた雪の華ももう無いということ。彼女は汽車に乗り帰っていった後なので、魔法は既にとけている時間なのである。
童話の中で王子様は、灰かぶりに戻ってしまった彼女をガラスの靴を頼りに見つけ出し、彼女が着飾っているか否かに関わらず彼女を娶る。“普段着のままの君”はまさに灰かぶりに戻ったシンデレラであり、ガラスの靴もいらないということは、着飾っていない普段の彼女の内面的な肯定と、そんなものがなくても君を見つけられる、通じ合っているのだという“愛してるよ”なのだろう。
『シンデレラ・クリスマス』に描かれる王子は、いかなるときの彼女へも変わらぬ愛を捧げ、特別な日に着飾った彼女をより美しく感じられる、理想的な王子様像だ。まさに、恋人たちの夜を彩る冬のラブソングにぴったりな名曲となっている。

V6三宅健『"悲しいほどに ア・イ・ド・ル" ~ガラスの靴~』
最後は少し変則的なパターンのシンデレラソングである、V6三宅健のソロ曲『"悲しいほどに ア・イ・ド・ル" ~ガラスの靴~』を紹介しよう。
この曲では「シンデレラ」という言葉は登場せず、最後の歌詞とタイトルに“ガラスの靴”と入っているのみ、というのが特徴で、パッと見てみると他の部分もほとんどシンデレラとはあまり関係がないような曲になっている。
何よりこの曲は、「アイドル」について歌った曲なのである。歌詞に書かれる“虚像とリアル”や“2次元の世界”というように、アイドルという虚像として生きる自分と、その中にあるいち男子としてのリアルを歌っている。若くしてデビューし今もなおその変わらぬ童顔で奔放な笑顔を振りまく三宅だからこそ活きる楽曲だ。

アイドルという職業では特に声高に叫ばれる“恋愛禁止”や、それに連なる暗黙の了解に疑問を投げかける“普通の男の子”としての彼は、“愛や夢と希望を振りまいて演じている”と言いきりつつも、そんな自分を“決して嘘じゃない”としている。
矛盾しているようでいて、そうではない。これがつまり前述の“虚像とリアル その狭間”ということなのだ。この曲の締め括りに、それを示すフレーズが登場する。
“ガラスの靴”というものこそ“虚像とリアルの狭間”そのものの象徴である、と捉えられる。童話の「シンデレラ」の中でも、魔法がとけたはずなのにガラスの靴だけは消えることなく残ったまま。“ガラスの靴”は、シンデレラにかけられた魔法のひとつであったにも関わらず、灰かぶりというリアルとを繋ぐ境界線でもあった。

“ガラスの靴を持って走る”のは、“灰かぶり”ではないだろうか。魔法がとけてしまったので、継母たちにバレないよう夜明けまでに帰らなければならなかった。片方残ったガラスの靴を脱いで持たなければ、“走る”ことはできなかったのだ。
実際のライブパフォーマンスで、三宅は片方のガラスの靴を持って登場し、左右違う色のスニーカーを履いて踊る。曲のラスト、靴を拾い胸元に持つというパントマイムを含んだ振り付けで、目の前に置かれたガラスの靴を見つめるのである。虚像の靴を手元に抱え、実体の片方と対比させたような演出は、踊っていた彼はアイドル“虚像”だが、彼自身というリアル“実体”も同時に存在しているというような、不思議な感覚に陥る空間を作り上げていた。
狭間を象徴させるからこそ、どちらの意味にも取れるだろう。アイドルとは、ファンに靴を持って会いに行く“王子”であり、同時に灰かぶりというリアルの側面を持ち合わせる“シンデレラ”でもある。そして“どちらも嘘じゃない”が答え、ということなのだ。

男性に高い理想を求める女性の依存的願望を表した概念として「シンデレラ・コンプレックス」という言葉がある。男性アイドルが「シンデレラ」という比喩を使うのは、多くのファン(女性)から依存される対象であるという点で自然なことなのかもしれない。また、女性に「いつかこんな王子様が…」という「夢=魔法」を与える偶像、という意味でも、アイドルとシンデレラというのは親和性の高いモチーフなのだろう。

とはいえ、今回一部紹介したようにその使われ方は実に様々である。今後、そういった部分に注目して楽曲を見つめ直してみると、新たな見方を発見できるかもしれない。

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