輪湖里奈のドイツ留学後記その2 〜留
学への決心と運命の出会い

このコラムは、この夏にドイツ・ベルリンでの留学を終え完全帰国した声楽家・輪湖里奈による留学後記です。

▶その1「渡航の決心から実現までの葛藤」はこちらから
大学院卒業とその後の進路
完成した論文を教務に提出したときの写真
留学を白紙に戻してからは、在学していた東京藝術大学大学院での生活に追われる日々であった。幸か不幸かその日々は忙しく、今後の方向性について悩む余裕もないほどであったし、大学院での修士研究は私にとって何ものにも変えがたいほど楽しいものであった。
しかし、なんとなく永遠に感じていたあの学び舎も、一時的な住処であることに気付かされる瞬間はやってくる。2016年の11月頃、修士論文も仕上がりつつあり、目をそらし続けてきた「卒業」という2文字が次第に現実味を帯びてきた。卒業したらどうするか。
修士の修了演奏後、安堵の表情
いくらのんびり屋の私とはいえ、もちろん全く何も考えずうっかり卒業間近になってしまったというわけではない。卒業後は博士課程に進学し、やりがいを感じていた研究を発展した形で続けるか、もしくは清水の舞台から飛び降りる気持ちで思い切って留学するか、その2択でずっと悩んでいた。しかし考えるばかりで、具体的にどちらに対しても行動を起こすことはできないままでいたのだ。このときいよいよ、15歳で音楽の道を志して以来がむしゃらに走り続けていた足を一度止めて、自分の進む道をはっきりと決めなければならなくなった。
不安は追い風に
当たり前のように過ごしてきた大学を離れるとき。なんとも複雑な心境だった
結論としてはドイツに留学することを決めたわけだが、その後押しとなったのは何を隠そう、卒業による「不安感」に他ならない。大学とは一時的な住処だったとしても、その安心感は絶大なものだった。大学という狭い世界の中で、無意識のうちに特別であるように思い込んでいたのかもしれない。
しかし、「東京藝術大学の学生」は同じ時期、同じ空間には、せいぜい数百人しかいないわけだが、「東京藝術大学を卒業した人」は年々増え続け、私はその具体的な人数を知らない。途方もない。私もその多くの数の中のひとりになるのだという感覚は、非常に奇妙なものであった。だからこそ学生ではなくなる瞬間はとても怖くて、心もとなくて、自分の青春のその全てを音楽とともに精一杯生きてきたのに、“自分はまだ何者でもないのだ” という思いにさいなまれた。
しかし自分の手にはまだ何もないという実感は単なる不安感ではなく、私の場合には追い風になった。何もないのなら、恐れるものも何もない。挑戦してみたかったものを思い切って片っ端から挑戦してみようというエネルギーへと変わった。あれほど悩んでいたのに、思いきるときというのは一瞬である。
わからなければ行動あるのみ!
ドルトムントで滞在させてもらっていたお家の周辺
留学しようと心に決めてもそこからが大変だ。まず、何をしたらいいのかがわからない。留学には何が必要なのか、行った先での住まいは? ビザは? 奨学金の申請に、当面の資金の問題にも悩まされた…そもそもどの土地に行くのかだって、こんなに長いことドイツをさまよっているというのに決められていないのだから。
しかし悶々と悩んで日本にいても何も解決しないのだ、行動あるのみ。私は卒業してすぐ、とりあえず旅行ビザのままドイツへ行くことにした。ちょうど5月から7月ごろはドイツの大学の入試もある。よくわからないが運よく入れるかもしれないし、試しにいくつかの学校を受けてみたりして様子を見てもいいかもしれない、というのが私の考えだった。
もしも大学に受かったらそのあとにビザのことも家のこともその土地で考えればいいし、受からなかったらまたそのとき考えようと心に決め、私はまたも、ドルトムント歌劇場の指揮者、小林 資典(こばやし もとのり)さんの元に居を借りさせてもらい、2ヶ月の間そこでいろいろなことに挑戦することにした。
ドイツでの大学受験
ドルトムントで滞在させてもらっていたお家の周辺
5月の頭からドルトムントで生活し始めた。着いてから数日後に早速隣町のエッセンで受験があったので受けてみたが、様子もわからず、案の定落ちた。噂には聞いていたが、エッセンはものすごい人数の韓国人が受験しに来ており、受付をしてくれた生徒も韓国人、案内や説明をしてくれたのも韓国人の生徒と、今どこの国にいるのか、わからなくなるほどだった。あとで聞いた話によると、エッセンの大学には韓国人の先生がいるとのことで、もちろん実力がものをいう世界であることは理解しているが、コネクションの大切さも知ることとなった。
その後もいくつかの大学を受けてみたりしつつ、受ける前にそれぞれの大学の教授陣を例のごとく訪ね、レッスンを見たり、受かったら先生の門下にとってもらえないかと言う交渉をしに行ったりもしたのだが、実際につきたいと思う先生がまるでいなかった。きっとどの先生もとてもいい先生だったと思う。しかし私の求めるものは見つからなかった。
加えて、先生とのコネクションやプラッツの確保(ドイツの大学には教授ごとのクラス単位で入学できる生徒の数が毎年決められており、受かった場合に担当してもらえるかどうか、いわば “席の確保” が必要なのだ)もない状態だ。こんな状態で運良く大学に入れるなんてことは、現実的ではないと思い始めていた。また、日本で大学院まで卒業してしまった私は、今のドイツの制度では同じ学科の大学院に進むことはできないと言われることもあった。こういったことから、大学というところに固執することの意味についても改めてよく考えるようになった。
崖っぷちからの運命の出会い
先生探しに奔走する過程で、あることに気づいた。それは、私が「学びたいと思っていること」が不明確だから先生が見つけられないのではなく、「学びたいと思っているノウハウ」に対して明確なビジョンがあるから、なかなか出会えないということだ。しかし、だからと言って具体的な進展もなく、正直この期間のドイツ生活は途方にくれる毎日だった。このときの私はひとりになることがとても怖かった。ひとりになると必然的に、自分と今までになく向き合わなければならなかったし、人と関わっていないと、社会との繋がりを失うような、もっといえばこの世に自分が存在していることの証明ができなくなってしまうような、そんな恐ろしさを感じていた。
滞在していたドルトムントから、初めてベルリンをおとずれた時のホームの電光掲示板
そんな混沌を極め、悩みに悩み抜いた私に、音楽の神様はもしかしたら同情してくれたのかもしれない。それは、小林資典さんがコーミッシェオーパーに客演で呼ばれ指揮をすることになった公演を観に、初めてベルリンを訪れたときのことだった。
貧乏旅だったので、飛行機ではなく4時間以上かけて電車旅。食費の節約のためにサンドイッチも持参(笑)
その滞在中に、小林さんの元同僚で現在コーミッシェオーパー専属歌手として演奏をされている歌い手のもとで、レッスンをしていただけることになったのだ。それが運命の出会いであった。彼女のレッスンは的確で、私の弱点を一目で見抜き、必要なアドバイスを十分に与えてくれた。彼女のレッスンを受けたときに、探し求めていた先生はこの人だと確信した。
ベルリンで滞在していた部屋。格安だったが、オンボロで、毎日窓の外を眺めながら、悶々と自分について考えていた
正直なところ、大学に入学できれば奨学金の申請もしやすかっただろうし、学費がかかると言っても日本に比べればドイツは圧倒的に安かっただろう。それにドイツは学生であるということへの優遇もとても多く、金銭的にも、身分の補償としても、学生になれることは留学することにおいて多くの利点があると思う。
初めていったベルリンコーミッシェオーパー
しかしそれを覆す気持ちがその時働いた。同時に、支援してくれる両親には、本当に申し訳ないという思いも胸いっぱい感じていた。しかしこのチャンスに乗らなければ、私は一生後悔するだろうと思った。迷うことなく私は、彼女の元へ、ベルリンへ留学することを心に決め、正式な留学の準備のために、日本へ一時帰国するのだった。
次回は、いざ、ベルリン留学へ!!!

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