第22回:SION × 新宿ロフト 大塚智昭

第22回:SION × 新宿ロフト 大塚智昭

SION × 新宿ロフト 大塚智昭
- the Homeground 第22回 -

ライヴ活動を行なうアーティストの拠点となるライヴハウス。思い入れ深く、メンタル的にもつながる場所だけに、アーティストとライヴハウス、それぞれの目線から出会いや第一印象などを語ってもらった。もしかしたら、ここで初めて出る話もあるかも!?

SION

SION

SION プロフィール

シオン:1960年生まれ、山口県出身。85年に自主制作アルバム『新宿の片隅で』で衝撃的にデビューし、86年には『SION』でメジャーデビューを果たす。その独特な歌声、ビジュアル、そして聴き手の心に深く刺さる楽曲の数々は、日本のミュージックシーンにおいて唯一無二の存在。多くのアーティストから敬愛されるミュージシャンズ・ミュージシャンであり、SIONをリスペクトしているミュージシャン、俳優、タレントには枚挙にいとまがない。長年培った充実したライヴパフォーマンスには定評があり、年齢、性別を越えた幅広いファンに支持されている。SION オフィシャルTwitter

30過ぎてから、俺がこうやっていられる
のは
普通のことじゃないって分かった

SIONさんは14歳頃にギターを始めて、16歳でライヴハウスに出演したとのことですが、どういったきっかけからだったのですか?

一番最初はね、高校を辞めて家でゴロゴロしてたんだけど、周りが楽しそうに学校行ってるのを見て自分ひとり置いてかれてる気持ちになってね、曲を書いてたので“よし、歌おう!”って思って(地元の山口から)ライヴハウスが多い京都に行ったのがきっかけだった。当時はライヴハウスの仕組みも何も分からなかったから“君ね、こういうところはオーディションがあったり、何カ月も前から出演する人が決まってるんだよ”って言われて…そんなことも知らなかったんだよ。京都タワーが見えるベンチで寝泊まりしていろんな店を訪ね歩いて、唯一歌わせてくれたのが“ジュジュ”っていうカレー屋さんだった。ライヴハウスって感じではなかったけど、一応マイクがあって、ふたりのお客さんの前で5~6曲歌ったかな。お客さんはカレー食ってるだけだけどね(笑)。終わったあと、マスターに“カレー食うか?”って言われたけど“いらない”って断って、店を出た瞬間、“やったぞ!”って気になれたんだよ(笑)。小さいけど大きな一歩。そこからまた自分で高校に行き出して、ジャズ喫茶&バーで働きながら歌ってたんだけど、17の頃にアナーキーっていうセックス・ピストルズの日本版みたいなバンドが出てきたのが悔しくて東京に行かなきゃって(笑)。そして、当時新宿の西口会館にあった“ハーヴェスト”ってアクセサリー屋でバイトしながら、デモテープを作ったり小さなライヴハウスで歌ったり。バイトしてた店は何年か後に“8 1/2”(ハッカニブンノイチ)っていうパンクショップになったんだけど、デビューしてもしばらく働いてた。

初めて新宿ロフトでライヴをしたのはいつ頃ですか?

デビューの2年前くらいだから84年とかかな。東京のライヴハウスと言えば新宿ロフトってイメージがあったね。

その時のライヴのことで覚えていることはありますか?

その頃はレコード会社に曲を聴いてもらうためにデモテープを持っていろんな人に会いに行ったのがきっかけで、デビュー前なのにもう周りに大人がいたからね…“お前に合うミュージシャンを呼んだ”って松田 文(Gu)とか池畑潤二(Dr)を紹介されたんだけど、池畑さんなんて最初は1時間睨み合っただけで、ふとりともひと言も話さなかった(笑)。

SIONさんの中での“東京のライヴハウスと言えばロフト”というイメージだったり、1985年には“新宿の片隅で”というタイトルで自主制作のアルバムを出していますが、“新宿”という街に対する思い入れは深いのでしょうか?

新宿でバイトしてたからずっと新宿にいたし、好きだったんだろうね。渋谷とかに用事で行く時はしんどくて。デビューしていろんなところに行かなくちゃいけないのも嫌で、新宿駅の西口に着いたら安心するみたいなところはあった。酔っぱらってどっかの高いビルを“これが邪魔なんだ”って4時間くらい押してたこともあったみたいで(笑)。もちろん、ビクともせず…そうやって自分の力のなさも知った街だね(笑)。

(笑)。当時、新宿ロフトで関わりの深かった方について教えてください。

この間亡くなった小林さんが中心だったかな。いろいろ良くしてもらった。デビューしたあとにSION&THE NOISっていうバンドをやってたんだけど、メンバーのリズム隊はロフトの従業員だったからね。

当時のSIONさんはどんな人でした?

情けない話なんだけど、30になるまでは周りのことを気にしてなかったというか、“俺がここにいる”っていう感覚だけで生きてたから。ずっと照明をやってくれてたスタッフに“10年経ってやっと口をきいてくれましたね”なんて言われたりして…。30過ぎてから、俺がこうやっていられるのは普通のことじゃないって分かって、やっとみんなに“ありがとう”って言えるようになったんだよ。それまでは本当に歌って帰るだけだった。そんな奴が今でも人の前で歌えてるんだから、しっかりしないとなと思う。ロフトが東口に移ることになった時(新宿ロフトは1999年4月に現在の歌舞伎町に移転)はあまりピンとこなかったけど、今の店長の大塚が企画したライヴで“若いバンドとツーマンをやってほしい”って誘ってくれたり、誰もが聴いているような音楽の中に俺を紹介してくれたりしてとても感謝してるよ。

大塚さんとの出会いはいつ頃でしたか?

どうだったかなぁ。別のライヴハウスに出てる時に来てくれたりもしたし、これと言って深い話はしてなかった気がするんだけど、いつからかロフトでライヴをする時に大塚がニコッと笑って迎えてくれるとほっとするようになったね。

今となっては新宿ロフトは数々のアーティストを排出してきた老舗ライヴハウスですが、当時から他のライヴハウスとは違うような面影はあったのでしょうか。

他のライヴハウスをあまり知らなかったからね。だから、東京でライヴをするとなったらロフトしか頭になかった。

そんな新宿ロフトで印象に残っているライヴをピックアップするとしたら?

今年の春もやったけど、最近はCSC(SION&The Cat Scratch Combo)で出ることが多いからね。そうそう、20周年の時に2デイズをやったのは印象に残ってる。2日目のTHE MOGAMIはバンドの機材も多かったし…あのステージによく納まったなぁ(笑)。

昔と今とで変わったところや、変わっていないところはありますか?

西口の頃と東口の今では時代も違うし、そんなに入り浸ってたわけでもないから…変わったとしたら俺が一番変わったんじゃないかなって思う。少しは常識的なことができるようになったからさ(笑)。

では、最後にSIONさんにとっての新宿LOFTはどういった存在ですか?

立派なことでも言えたらいいんだけど…ただひとつ言えることは、俺が“こういうライヴをやりたい”って相談できるライヴハウスは、大塚のいる新宿ロフトしかないってことだね。

OKMusic編集部

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