恩返しは始まったばかり、佐藤広大 
音楽の志を与えた亡き親友

歌手活動の道を作ってくれたのは亡き親友、そして、EXILE SHOKICHIとの出会いだったと語る佐藤広大

 北海道発のシンガーソングライター佐藤広大が2月8日に、メジャーデビューシングル「スノーグローブ」をリリースした。カップリング曲「Diamond Dust feat. EXILE SHOKICHI」は、親友であるEXILE SHOKICHIが作詞を手掛け、レコーディングにも参加したことで注目を集めている。自身の活動を「恩返しの旅」と例える佐藤に、音楽活動を始めるきっかけを与えたのは親友との別れ、そして、SHOKICHIとの出会いだった。音楽、そして、歌に寄せる思いとは。

きっかけは亡き親友の遺した言葉

佐藤広大

――ずっと目指していたメジャーデビュー。遅咲きと言うとあれですけど。

 若者たちの希望になればいいかなと思います。様々な事情で音楽の夢を諦めてしまう人をたくさん見てきましたが、こうして僕のように、メジャーデビューするチャンスを掴めるんだよって。

――そもそも歌手になろうと思ったきっかけは何でしたか?

 けっこう遅くて、高校2年生のときです。中1のときに初めて友だちとカラオケに行って、GLAYさんの「HOWEVER」を歌ったら、すごく褒めてもらえて。それまで自分には何も取り柄がないと思っていたので、そんな自分でも人を喜ばせることができるんだなって。それで歌うことが好きになって。でもその時は、歌手になるとは思ってもいませんでした。

――高2のときに何が?

 幼稚園からの親友が事故で亡くなって。その彼が、中学のころからずっと僕に「歌手になったほうがいいよ」と薦めてくれていたんです。それで、彼の分まで生きるために、彼の言葉の意味を確かめる人生の旅に出ようと決意しました。

――高校生には、すごく重い決断でしたね。

 はい。親友の死は、あまりにも衝撃で。事実を受け入れることがなかなかできず、悲しくて悔しくて、自分自身もこの先どう生きて行けばいいのか分からなくなってしまって。きっと最初は、そのネガティブな感情を抑えつけるためとか、ポジティブな方向に気持ちを転換するために、音楽にすがったような気持ちだったと思います。それともう一つ、親友が遺した言葉があって。それは、「大学に行ってほしい」というものでした。

――それはどうしてですか?

 僕らは少しヤンチャだったので、周りで大学に行くような人はいなかったんです。その中でもおまえはマシだからと、きっとヤンチャな連中の希望になってほしいと思っていたのかもしれないです。

 ただろくに勉強をしていなかったので、すごく大変でした。最初はAO推薦(編注=大学が求める学生像と、受験生の人物像が合致するかどうかで合否が決まる入試方式)でしたが、まんまと落ちて。そこから気持ちを改め、死にものぐるいで勉強して。学校から推薦をもらい、合格通知が届いたのが、偶然にも親友の月命日の日だったんです。そこで僕は、諦めない強い気持ちがあれば、何でも成し遂げることができると学びました。

――その大学で出会ったのが、EXILEのSHOKICHIさんだったと。

 そうなんです。歌が上手いやつがいるという噂は聞いていたんですが、授業でたまたま隣の席に座ったのが、SHOKICHIで。それで話しかけ、授業終わりにカラオケに行って。僕はFull Of Harmonyさんの「I Believe」を、SHOKICHIは久保田利伸さんの「夢 With You」を歌い、お互い1曲ずつ歌っただけでピンときて。それでJACK POTというユニットを結成して活動するようになりました。

――SHOKICHIさんとは、どのくらい一緒に活動を?

 3年です。寝るときとバイトの時間以外は、音楽活動だけじゃなく遊びも学校もいつも一緒で。彼はアパートでひとり暮らしで、僕は実家暮らしだったんですけど、アパートの水道が凍結して出ないときとか、しょっちゅう家に来ていて。僕がいないときでも家に上がって、僕の家族と一緒にご飯を食べてたりとか、家族ぐるみでの付き合いでした。

 そのとき、高校のときの親友が「大学に行け」と言った、その意味を理解した気がしました。親友が、新たな親友に導いてくれたというか。

オーディションでは悔しい思いを

佐藤広大

――その後オーディションをSHOKICHIさんと共に受け、SHOKICHIさんだけが受かって先に進んで行ったことは当時、どう思いましたか?

 悔しくて、悲しくて。素直に応援できない気持ちでいる自分に腹が立ったし。人生の相方だと勝手に思っていたので、離れることがすごく寂しかったです。

 SHOKICHIが合格の連絡を受けたのは、帰りのフェリーだったんです。僕らはあまりお金がなくて。オーディションは東京だったので、漫画喫茶に寝泊まりして、帰りは池袋から新潟まで長距離バスで行って、そこから北海道までフェリーで。合格の連絡は、ちょうど帰りのフェリーが出発したくらいでした。彼も、「広大の携帯も鳴れ!」って、必死に祈ってくれていたんですけど、僕の携帯は残念ながら鳴りませんでした。

――その帰りのフェリーは気まずかったですね。

 13〜14時間かかるんですけど、もしかすると、僕以上にSHOKICHIのほうが、気まずかったかもしれないですね。僕は頭が真っ白で。二人で、ひたすら沈黙でした。あのときの絶望感は、今でも覚えていますね。それから気持ちが吹っ切れるまで、正直5年くらいかかりました。

――そんなに?

 いつも一緒にいた仲間が、テレビで歌って活躍しているのは、もちろん誇らしいのですが…。ライブを見に行って、見ていられずに途中で帰ってしまったこともありました。歌が好きで自分も上がりたいと思っているからこそ、どうしても悔しさが先立ってしまって。

 それで、自分はそういう星のもとには生まれなかったんだと言い聞かせ、親を安心させるためにも一度は就職したのですが、それでもやっぱり諦めきれずにいて、1年足らずで仕事を辞めて。そこからバイトしながらでしたけど、本腰を入れてソロで音楽活動をスタートしました。

――北海道では、どんな活動を?

 ライブで歌ったり、インディーズでCDをリリースしたり。自分でラジオ局周りなどの営業をやって、スポンサー探しとか企画書を書いたりしました。それで、ラジオをやらせてもらえるようになって。

――北海道の「FM NORTH WAVE」のパーソナリティーも、自分で営業して?

 はい。自分の歌をアピールできる場所を一つでも増やそうと思ったんです。『from R&B』という番組は、もう4年になります。僕自身ラジオが好きだったし、「FM NORTH WAVE」のリスナーでもあったし。もともとラジオで良質な音楽を知り、それを調べてCDを買ったりしていたので、今の若い子にも、少しでも良質の音楽を届けて、それに耳を傾けてほしいという気持ちがありますした。

 もう一つ『RADIO GROOVE( ラジグル )』という高校生向けの番組では、J-POPのメインストリームの楽曲をオンエアしたり、ゲストとのトークコーナーもあって。歌手目線で感じたことを高校生に伝えたいなと思ってやっています。実は最近、高校生の間でラジオ人気が高まっているんです。

――アプリでRadikoとかありますもんね。

 ネットと連動したラジオというメディアが、高校生たちにとっての新しいコミュニティツールになっているんです。生放送でリアルタイムにやりとりができて。SNSとは違って内容がリアルだから、そこにすごく面白さを感じてくれているみたいです。それだけに僕も、ラジオの仕事にはやりがいを感じています。

 電話で生相談を受けたりもするんですけど、高校生から受ける相談の内容は、昔のラジオと何ら変わりないなと思います。そういう意味ではラジオって、すごく普遍的なツールなんだと思いますね。

この命が尽きるときまで恩返し

佐藤広大

――メジャーデビューシングル「スノーグローブ」ですが、キラキラして温かく切ないラブソングという感じですが。

 そうですね。でも実は、僕とSHOKICHIが離ればなれになるときの気持ちを歌っているんです。もともと男女のラブソングとして書いていたのですが、離ればなれになる不安や切なさを重ねられると思って、友情ソングとしても通じるものにしようと。どちらの目線で聴いていただいても、いいと思います。

――フェリーのときの気持ちで?

 気持ちを振り切った、前向きな気持ちを歌っています。ちょうど3月の卒業シーズンでもあったので、思い出というか、一緒に街を眺めたときの気持ちや、一緒に遊んだりライブをしていたときのことを思い出して歌いました。

――タイトルはスノードームとも呼ばれている、地方のお土産品でよくあるやつですよね。

 そうです。雪の降る街で育ってますから。あれってひっくり返すと、中で雪が降るじゃないですか。北海道の僕らの街を表現するには、ピッタリだなと思いました。

――もう1曲の「Diamond Dust」は、そのSHOKICHIさんの作詞。どういう経緯で? メジャーデビューのお祝い的な?

 実は2年ぐらい前に、一緒に作ったものです。いちアーティスト同志で、久しぶりに一緒にスタジオに入ろうということになり、SHOKICHIのほうから「広大に向けて歌詞を書きたい」と言ってくれて。

――背中を押してもらえる歌詞ですね。

 めちゃくちゃ良い歌です。きっと僕には書けない、彼の視点だからこその夢の描き方だと思うので。

――タイトルの「Diamond Dust」も、北海道ならではですよね。

 北海道でも、滅多に見られるものではなくて。奇跡的に条件が合ったときだけの現象なんです。札幌ではまず見られない、それだけの奇跡を、夢と重ねていて。

――レコーディングは2人で?

 はい。JACK POTのときは、オリジナル曲を作る技術もなかったので、インストの曲にメロディーと歌詞を乗せて歌っていたんです。だからトラックから作って、ちゃんとしたスタジオでというのは、このときが初めてでした。

 僕のボーカルディレクションは、SHOKICHIが買って出てくれて。「広大の声をいちばん良く知ってるのは俺だから」って、マイクを選んでくれたりして。結果、僕の声に寄せて彼が声を合わせてくれた感じになりました。レコーディング中は感極まる瞬間があって、恥ずかしいから隠れて泣いてました。

――大学進学と音楽という、友だちの言葉から始まった2つの夢を叶えてきたわけですが、今の夢は?

 僕は音楽を歌うにあたり、僕が経験してきたことをメッセージとして届けることが役目だと思っています。生きる希望とか当たり前の喜びを改めて感じられるとか、そういう普遍的なメッセージを伝えることに、すごく使命感を感じています。そしてやはり、自ら命を絶って欲しくない。生きたくても生きられなかったやつがいるということを伝えたい。足を引っ張らず、手を引いてあげられる関係を、音楽を通して作っていきたいです。

――佐藤さんは、常に誰かのためと思って歌っていますね。自分のことよりも、まず誰かのためにと。自分が楽しむための音楽ということも、もっと考えてもいいんじゃないですか?

 それはそうですね。そういう時期がきたら、そういう気持ちで歌ってみたいです。でも自分のために音楽をやるのは、40歳を過ぎてからじゃないかな? 恩返しはまだ始まったばかりだし、そもそも物心ついたときから、そういう子どもだったし。誰かのためというのは、音楽に限らずですけど、きっとこの命が尽きるときまで何かしらの形で続けて行く。そんな人生を送っていきたいと思っています。

(取材・撮影=榑林史章)

MusicVoice

音楽をもっと楽しくするニュースサイト、ミュージックヴォイス

新着