音楽家が撮った初映画作品。運命、不
公平、抗う姿。半野喜弘が描きたかっ
たもの

取材・文:yanma(clubberia)
撮影:Satomi Namba(clubberia)
協力:Bitters End, inc、Tractor 

——映画を撮った理由を教えてください。
2005年に自分名義での最後のアルバム『Angelus』を作ったのですが、それを作った後に自分の本当に作りたい音楽が一体なんなのか、ちょっと見えなくなっていて。それを探しているうちに気がつくと「もっと人間を表現したい、もっと人の人生を表現したい」という気持ちになって。それが最終的に映画に行き着いた、といった感じですね。

——自身にとって映画とはどういった存在ですか?
僕にとっての映画の存在とは「嘘」ですね。「嘘」のなかに、いかに「嘘の真実」を作るか、ということに、みんなはものすごく情熱をかけている。そこが映画の面白いところで。嘘を本当にするには真実以上に真実を追求しないとできない、これが映画だと思うんですね。だからこそ、やりがいがあるという気がします。

——実際に映画を作ってみて気付いたことはありますか?
僕個人の感覚なんですけど、音楽と映画ってすごく近いということですね。音楽を作る感覚で、映画を作れるんだ。同じ時間軸をもった芸術なので、じつはすごく近いということを確信しました。あと、思っていたことと違ったことは、予想以上にお金を集めるのは大変なんだなということですかね(笑)。

——クラウドファンディングで集めたお金以上にもかかりましたか?
もちろん、もっとかかりましたね。 
——本作は自身で脚本も作られていますが、ストーリーの意図というのは何だったのでしょうか?
ストーリーの根幹は「人間が生まれて生きていくということは、すごく不公平だ」ということですね。人生は自分では抗えない、いろんな不公平なことによってその人の人生が進んでいくと思うんです。幸せになる時もそうだし、不幸になる時もそう。たとえば、ある人が罪を犯したとして、その最初の芽がどこにあるのか、ということを描きたかったんです。

——最初の芽?
人間の不公平の根源というものは、「神」や「運命」と呼ばれているものだと思うんですね。要するに、僕たちが「抗えない力」、僕たちに「コントロールできない力」というものが、すべての不公平の根源にある。だからこそ、それにどう立ち向かって僕たちは生きて行くのだろうか、ということを考えたかったんです。
  
——作品のなかで「雨」が象徴的なものとして存在していました。それにも理由があるのでしょうか?
僕たちのまわりですべての人に平等に訪れてくる、圧倒的に抗えない力って何だろうと考えたときに、それが「雨」だと僕は思ったんです。ものすごく裕福な人にも、そうでない人にも、平等に「雨」は降ってくる。誰もそれを止めることができないし、降らせることもできない。そういった、人生の波みたいなものの象徴が「雨」。だから映画のなかでもすごく重要な役割を果たしているんです。

——なるほど。でも劇中で主演の男優、女優、両者にとって「雨」はキーワードになっていました。そのことと、今の話を考えると、なぜタイトルは『雨にゆれる男女』にしなかったのかなと。
メインは、ある男の話なのですが、タイトルを見た時に男が映っている写真とタイトルに付けられた「女」の差で、より物語の深みや重厚感が表現できるんじゃないかなと考えました。
 
——色彩について聞かせてください。たとえば女性が出てくるシーンは青色、職場の工場でのシーンは緑色、クライマックスは赤色など、シーンに応じて意図的に強調しているように思いました。
そうですね。シーンを印象付ける時に役者の演技とカメラの動きというものがあるのと同じように、その時にどういう色がそのシーンで存在しているかということで、すごく印象が変わる。それは音楽も同様。たとえば、一緒の音楽でも赤い色を見ながら聴くのと、青い色を見ながら聴くのとでは、聴こえた音の捉え方が変わるんですね。そういう意味で今回僕は、ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ(※1)という宗教画家がいるのですが、そういった宗教画の色の配置を参考にしました。あと黒です。黒というのは、いわゆる闇としての黒なのですが、それがただの黒ではなく、そこに何かがあると感じさせる黒を撮るために、色彩の配置を考えてストーリーを展開させました。
※1:16世紀末から17世紀初頭にかけヨーロッパで盛んになった美術・文化の様式、バロック。その時代を代表するイタリア人画家。写実的な描写と明暗を明確に分ける表現が特徴。

——色の強調もですが、劇中の音も意図的に強調されているように思いました。たとえば、足を引きずる音だったり、雨の音だったり。
やはり映画はフィクション、「嘘」なんですね。だからこそ、作品から聞こえてくる音が現実と同じである必要はなくて、いかにこの映画を観た人の心に瞬間的に記憶として埋め込まれるか、というための装置なので。シーンによって音のバランスを細かく考えたり、音の種類を考えたりというのを1年近くかけて設計しましたね。たとえば、足を引きずる音にしても9割ぐらい後から録り直しているんです。現実よりも、もっとリアルにするためにはどうするのがいいかを試行錯誤しました。靴の底はどんなものがいいか、素材はどうだとか。

——今までは他者の作品に音楽をつけていましたが、今作では自身の作品に音楽をつけていました。何か違いはありましたか?
映画に音楽をつける作業と、自分が脚本をして演出もしてというものに音楽をつける作業とは大きく違いました。映画に音楽をつける作業というのは、初めてその映像に出会った時に自分が感じた一番強い力というものを掴み取ること。あるときは和音だったり、あるときは音色だったりというように、いろんなことがあります。でも自分の映画の場合だと、脚本を書いて、撮影をして、編集をしてとなると、自分のなかのファーストインプレッションがすり減ってしまう。なので、なるべくどんな音楽をつけるかということは考えずに最後までどうやって自分をキープしていくか、ということがすごく大変でしたね。次回作があれば、人に任せたいなと思っています。

——音楽に関してですが、劇中ではいわゆるBGM的なものがないのが印象でしたが、その意図は何でしょうか?
映画音楽というものはあくまで独立したものではなくて、映画のなかの一部ということだと思っています。それは僕の映画音楽作家としてのポリシーでもあります。あくまでそのシーンが必要とした音楽を必要な長さだけ使うっていうことに僕はいつも徹しています。僕が思うに、映画音楽というのは、音楽そのものがいいか悪いかということに、実はまったく価値はない。その音楽が鳴ったシーンがいい。その音楽が鳴った映画がいいっていう風になることが映画音楽の本来あるべき姿だと僕は思っています。

——他の作品で、シーンに音楽が理想的な状態で絡んでいるものを挙げるとすると何でしょうか?
もちろんたくさんありますけど、たとえば『ベニスに死す』のグスタフ・マーラー『交響曲第5番』が流れてくる瞬間っていうのはシビれます。あと意外かもしれませんが、映画音楽作家としては「ロッキーのテーマ」とかが流れてくるのってすごいなと思うんですよ。というのは、あの曲を書くってものすごく勇気がいるんですよね。あのメロディ、あの音色で。でもそれが、音楽だけだったら僕はあの曲には何も感じない、むしろ「何これ?」と思います。でも、あの映画のなかであのタイミングで流れると感動する。これが、さっき言った映画音楽のひとつの面白いとこなんですよね。
公開情報
タイトル:雨にゆれる女
公開日:11月19日(土)〜
会場:テアトル新宿(東京都新宿区新宿3-14-20 新宿テアトルビルB1)
監督:半野喜弘

■公式サイト
■『雨にゆれる女』予告編

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