坂本龍一/『千のナイフ』

坂本龍一/『千のナイフ』

坂本龍一の『千のナイフ』は若き日の
“世界のサカモト”を露わに【ハイレ
ゾ聴き比べ vol.4】

この【ハイレゾ聴き比べ】も回を重ねてくると、ハイレゾ音源では音がクリアーかつシャープになり、今までの音源では聴こえづらかった部分まで明瞭になること、とりわけ高音のキレが良くなることが実感として分かってきた。

ただ、聴き応えとしては、単にクリアーでキレが良くなるということではなく、音像がシャープになって個々の音の位置がよりはっきりとすることで、個々の音の重なり=アンサンブルが強調され、楽曲全体としては角が取れたように感じられるのが興味深い現象であると思う。

vol.1内田彩の「アップルミント」で感じたのがまさにそこだ。既存音源ではシンセの高音がやや立ち過ぎている感想を抱いたのだが、ハイレゾではそこだけが浮いているような印象は薄らいだ。個人的には80年代らしい電子音が入った音源はハイレゾ化されることで、随分とイメージを変えるのではないかと想像する。

それならば、それを実践してみようと推薦音源を見渡すと、坂本龍一の『千のナイフ』があった。これは後のイエロー・マジック・オーケストラ(以下、YMO)につながる作品で、“元祖テクノポップ”の側面もあるアルバムである。検証するには持ってこいだ。

TEXT:帆苅智之

日本を代表する現代音楽家

坂本龍一に関する説明は“世界のサカモト”と言えば十分だとも思うが、それではさすがにお叱りを受けそうなので、手を抜かずにしっかりと記そう。1952年1月17日生まれ、当年とって64歳の日本を代表するアーティストである。東京藝術大学在学中から、大滝詠一や山下達郎のアルバムに参加するなど、スタジオミュージシャンとして活動し、78年に細野晴臣、高橋幸宏と共にYMOを結成。コンピューターを駆使したポピュラー音楽、“テクノポップ”を世界中に発信した。

YMOの他、ソロ活動もワールドワイドに展開。87年には映画『ラストエンペラー』でアカデミー賞作曲賞を受賞し、映画音楽作家として世界中にその名を知られることとなり、近作ではレオナルド・ディカプリオ主演『レヴェナント:蘇えりし者』の音楽も担当している。

この他、アーティストやイベントのプロデュース作業、CMソングの制作を行なう一方で、さまざまな社会貢献活動に参加したり、意外なところではダウンタウンとともにコントを行なったり、とまさしく縦横無尽に活躍する人物でもある。“教授”という愛称も有名だ。

そんな坂本“教授”龍一のデビューアルバムが『千のナイフ』である。発売は78年10月。『イエロー・マジック・オーケストラ』が78年11月リリースであるから、わずかながら『千のナイフ』が先行しており、本作でコンピュータを使った音楽表現ができたことで、その制作手法がYMOにも反映されたと言われている。

しかしながら、この『千のナイフ』は初回プレスがわずか400枚で、そのうち200枚が返品されたというから、当初は評価云々以前の問題で、まったくと言っていいほど注目されなかった。後に“世界の~”と異名をとるアーティストのデビュー作とは思えないほどの冷遇だが、いつの時代も真に新しいものに対する世間の反応とは、得てしてそんなものであろう。

実験的電子音楽を反映した作品

今となっては教授の代表曲のひとつで、YMOでもカバーされたタイトル曲や「The End Of Asia」、あるいは「Plastic Bamboo」ではテクノポップの原型というか、大衆性を帯びたメロディーを聴くことができるが、実際のところ、このアルバムの実験的な色合いは隠せない。

何しろ「千のナイフ」の冒頭部分は1分半ほどが朗読だ。毛沢東が65年に井岡山を訪問した時に作成した詩だという。しかも、この朗読はボコーダーを通している。これは世界初の鍵盤付きボコーダーであるKORG VC-10を使用しているそうだが、この機種の発売は78年だから、世に出て即効レコーディングに使用したことになる。

この事実だけでも本作の実験性が分かろうと言うものだが、デジタル処理された朗読が1分半も続くのだから、決して分かりやすさのみを提示しているアルバムでないことは明白である。収録時間9分34秒。朗読を差し引いても約8分で、所謂ポップミュージックとは素直に言い難い。ちなみにYMOのアルバム『BGM』に収録されたセルフカバー版は5分強となっている。

「Island Of Woods」「Grasshoppers」「新日本電子的民謡 Das Neue Japanische Elektronische Volkslied」は、まさに音楽的な実験と言える。「新日本電子的民謡」はタイトルからして日本民謡と電子音楽との融合を目指したことが分かるし、「Grasshoppers」は即興演奏を含むピアノとシンセサイザーを合わせた意欲作である。特に「Island Of Woods」はアヴァンギャルドさすら漂う楽曲だ。さまざまな鳥の鳴き声。犬の遠吠え。雨風、波の音。メロディーがないわけではないが、全編で効果音が折り重なっていくような作りで、まさしく“森の島”を表現している。これもまた収録時間10分弱と、少なくとも初めて聴く人にもやさしい楽曲という印象はないが、本格的なデジタルシーケンサーが登場したこの頃、その最新デバイスをいじくり倒そうとした教授のワクワク感が伝わってくるような音源ではある。若干補足すると、「Grasshoppers」「新日本電子的民謡」はメロディーがある分、「Island Of Woods」よりは随分わかりやすいとは思う。

まず、既存音源から聴いてみる。05年のリマスター音源を使用して09年に再発された音源で、「高音質CD“HQCD”を採用」とあるから、少なくとも78年版よりも音質はアップしているのだろう。これだけを聴く限り、不満に感じるような箇所は見当たらない。強いて挙げれば、やはり甲高い音と若干こもり気味なところが気にならなくはないと言ったところ。

前者は「新日本電子的民謡」「Plastic Bamboo」「The End Of Asia」辺り、後者は「千のナイフ」だろうか。特に「新日本電子的民謡」は4分過ぎから左右に音を振り過ぎているきらいがあって、シンセの音色が頭の中をグルングルンと回る様子がサイケデリックというか、アシッドというか──はっきり言うと五月蠅い。いや、五月蠅いこともある…体調によってはそう感じることもあるという感じか。

まぁ、この辺は音量を調節すればいいだけの話で、目くじらを立てるほどのことではないし、何しろコンピューターミュージック黎明期の音源である。むしろその試みは称えられるべきものなのかもしれない。

適度な音圧、鮮明な音像、バランスもい

『千のナイフ』ハイレゾ版は今年1月27日に配信されたばかり。坂本龍一本人の監修の元、レコーディングエンジニアのオノセイゲンがオリジナルアナログ音源からリマスタリングを実施したものである。

最初に「新日本電子的民謡」の聴き応えを記そう。音がクリアーになっていることは明白で、それにより楽曲全体の奥行きを増しているように感じる。五月蠅く感じられたシンセの音も、音色が大きく変わった印象はないのだが、音圧が軽減されているような気はする。何と言うか、鼓膜の震えが少ない感じだ。

山下達郎が叩いているカスタネットも明瞭に聴こえるし、過去音源で人の声っぽく感じるシンセの音が、ハイレゾでも人の声っぽいままではあるものの、より歌っぽいというか、「電子音でコーラスを作ろうとしたのではないか?」と思わせるような音像を確認できたことも付記しておきたい。

もっとも変化を感じさせるのは「千のナイフ」でのギターソロのパートだろうか。渡辺香津美の弾くギターがよりエッジが立ったように聴こえるし、逆に言えば過去音源は若干音が籠り気味だったことも分かる。冒頭のボコーダー部分で残響音が長いことも確認できるし、マラカスの音がハイレゾではより鮮明になっている。

また、臨場感が増した感じ…と言うのも変かもしれないが、「Island Of Woods」ではそんな印象を受ける。シンセにシンセを重ねた感じだった楽曲が、ハイレゾ版ではそれぞれの音がはっきりとしているので、森の中でさまざまな音が鳴っているような迫力が出ていると思う。ラストの波の音がよりチャプチャプしているのはとてもいい感じだ。

他の楽器に比べてシンセが浮き気味な件はどうかというと、ピアノ中心の「Grasshoppers」がもっとも分かりやすいと思う。全体にアタック音が強調されているような感じで、高音のピアノ、高音のベースは明らかに鳴りがいい。ハイレゾではピアノとベースとの掛け合いがやや前に出ているような印象を受けるためか、少なくともシンセが出しゃばっている感じはない。

ファンキーな「Plastic Bamboo」は電子音が折り重なっているので、シンセの音色は如何ともし難くはあるが、1分30秒頃の甲高い音は幾分マイルドにはなっていると思う。この楽曲のビートは、過去音源ではボイスパーカッションみたいに聴こえて、それはそれで興味深いのだが、ハイレゾではそのボイパ感は薄まっている。

さて、ハイレゾ音源の解説に入ってから、“~ように感じる”とか“~ような気はする”、“~と思う”といった言い回しが多いことにお気付きだろうか? 正直言って、本コラムで先に紹介した3作に比べて、『千のナイフ』はハイレゾ音源と過去音源の差異が少なく感じられた。これは個人的な感想だが、ボリュームを絞ればほとんど違いはないように感じるのではなかろうか? 

これは何もネガティブな話をしたいわけじゃなく、過去のリマスタリング作業がそもそも素晴らしかったのではないかと想像する。さらに言えば、優秀な音楽家は音色やバランス、定位はもちろんのこと、周波数も意識したうえでレコーディングを行なうと聞いたことがある。その辺を教授は当たり前のように意識していたであろうから、もしかすると、そもそもトラックダウンが完璧だったのかもしれない。

もしかすると、『千のナイフ』ハイレゾ版を過去音源とさほど変わらないと思われるリスナーもいるかもしれないが、いずれにせよ、 “世界のサカモト”の若き日の仕事っぷりを確認できる代物であろう。ハイレゾ化は小津安二郎や黒澤明のフィルムを4Kで保存する行為に近い行為とも言える。音楽ファンなら一度は耳にしておいて損はない。
坂本龍一/『千のナイフ』

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    OKMusic編集部

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