戦後日本で右書きの横文字が左書きに
変わった瞬間をさぐってみた

現在、日本語の横書きは左から右に向かって書きますが、1945年(昭和20年)の終戦前の書籍や映像などを見ると、反対に右から左に書かれているものを目にします。これがいつ頃、なぜ現在のように変わっていくのかというのが今回のテーマです。

■そもそも日本語に横書きはなかった
そもそも日本語は右から左方向に縦書きするものであって、横書きをするのは名称や店名などを横長の額や看板に書くような場合に限られ、縦書きと同じように右から左に向けて書かれていました(正確には「1行1文字の縦書き」というようです)。

事態がややこしくなるのは、西洋文化が一般にもどしどし入って来る明治時代以降です。英語をはじめとする欧米文化では文字は横書きで、左から右に書きますし、算用数字(アラビア数字)も同様です。

新たに作られた英和辞書や英語の参考書などは、当初は英語の横に日本語の縦書きを90度左に倒して併記してましたが(その逆もあり)、読みにくいため、やがて日本語の横書きが使われるようになっていきます。書く方向も、欧米文字に揃えて左から右に書かれていました。



■戦前でも左から右に表記することはあった
ということで、実は日本語の横書き文章は左から右方向で始まっていたのです。

一方で、それに立ちふさがるのは、明治時代以前から看板などで使われていた右書き文字です。店の看板の他、新聞の見出し文字、雑誌の題字なども主にこの形式が取られていました。また、紙幣や硬貨、郵便切手など国が発行する券面の表記も右書きでした。

書籍「日本語大博物館 悪魔の文字と闘った人々」によると、その他にも「鉄道の場合は切符が左横書き、出札口の表示が右、食堂車や寝台車は左、大阪行急行は右という具合で(後略)」、つまり横書き表示の書き順は統一されていなかったのです。
By 不明
- scanned from p.70 of Railway Pictorial No.828, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=9814516
・(1938年(昭和13年)10月頃の大阪の天王寺駅の写真)
上の写真(※見られない場合は元記事にて)は1938年(昭和13年)10月頃の大阪の天王寺駅を写したものだそうですが、「紀州沿岸の魚釣」「砂川遊園」「ハイキング割引」と、駅前の看板はいずれも左書きで、唯一、写真右上にある「阪和食堂」だけ右書きになっています。



■実は左書きへの統一の決定は戦時中にされていた
横書きが増大していく中、国もこのよろしくない状況に懸念していました。太平洋戦争開戦翌年である1942年(昭和17年)に、文部省(現・文部科学省)主導で左書きへの統一の動きが打ち出されます。

著者を含む多くの人が持っていた、終戦後に右書きから左書きに変わったという印象から、連合国の占領政策の一環かと思いきや、日本の省庁による、しかも戦時中の決定だったのですね。

しかし、戦時中ということで、欧米文字の並びに揃えることに反対する声も大きく、新聞をはじめ、左書きに踏み切るところは多くはなかったようです。



■いきなりではなく徐々に変わっていった
左書き統一を大きく前進させたのは、終戦でした。連合国による日本の民主化政策にともない、新聞紙上では国語の見直しが語られるようになり、合理化・簡素化した分かりやすい日本語表記にしていくべきだということが叫ばれるようになりました。そんな中、新聞社で最初に動いたのが読売報知新聞(現・読売新聞)でした。



●読売新聞

・(読売報知新聞、1945年(昭和20年)12月31日朝刊の一面の画像)
終戦の年の大晦日、1945年(昭和20年)12月31日の一面を見てみましょう。ちなみに読売報知新聞とは、戦争中の新聞統制により、1943年(昭和18年)8月5日に読売新聞が報知新聞と合併してできた新聞名で、終戦翌年の1946年5月には報知新聞と分割、再び読売新聞に戻しています。

紙面右上あたりを拡大すると、「昭和二十年十二月三十一日」の日付、「総選挙と幣原内閣」などの見出しも右書きです。

大東京火災(いくつもの合併を経て現・あいおいニッセイ同和損保)の広告と、時事新報の「元旦より復活再刊」という広告も右書きです。ちなみに時事新報は戦前の5大新聞の一つだったそうです。新聞の広告欄に新聞の広告が入ってるんですね。

・(「題字、横字の左書き統一」のお知らせ枠の拡大画像)
そして、赤枠で囲んだ部分を拡大したのがこちらです。「題字、横字の左書き統一」、続いて「元旦紙上から、本紙の編輯(集)革新」というお知らせ枠です。翌日である元旦より、横字を左に統一すると書いてあります。続く文章は以下の通りです。

「本紙は再建日本の民主主義革命遂行のため、真に国民大衆とともに進む新聞製作を企画して全社一致鋭意努力していますが、今回紙面の刷新をはかり、題字「讀賣報知」を上掲のごとく横位置に配するのをはじめ、横列文字は一切左書きに統一する等新聞界積年にわたる伝統陋習の形式を打破、その他編集方式一切の革新を断行し、もって新生日本を象徴する最も進歩的なる新聞として、明元旦紙上から全読者に見ゆることとしました。」

要約すると、「今まで縦書きだった新聞ロゴを横書きにすることと、横書き文字は左書きに統一するなど、新聞界の長年の悪習を打破していきます。翌日の元旦より全読者にお目にかかることになります」

・(読売報知新聞、1946年(昭和21年)1月1日朝刊の一面の画像)
そして翌日の元旦の紙面がこちらです。右端にあったロゴが中央に来ています。紙面左中央にある見出しも左書きになっています。シンプルすぎる「日新火災」と「帝国銀行」の広告もこの通りです。



●毎日新聞

・(毎日新聞、1946年(昭和21年)11月30日朝刊の一面の画像)
続いては、毎日新聞です。毎日新聞の左書きへの転機は、読売報知新聞の11ヵ月後である1946年(昭和21年)12月1日からでした。その前日の11月30日の朝刊にその告知が出ています(赤枠部分)。

紙面右上を拡大したものです。この日の朝刊の見出しはすべて縦書きで違いが分かりにくいですが、一番上の段の日付や新聞名、ロゴ下にある「ミヤマ鉛筆」の広告などが右書きです。

・(「当用漢字と新かなづかい」のお知らせ枠の拡大画像)
赤枠で囲んでいた部分がこちら。毎日新聞は、一般使用する漢字の数を1850個まで制限した「当用漢字表」がこの年の11月16日に告示されたことを機に、12月1日より「当用漢字」と「新かなづかい」を採用するとともに横字を左書きに統一すると告知しています。

書籍「国語政策の戦後史」によると、新聞の使用漢字は6000にも及んでいたというので、新聞を読みこなすには相当な漢字知識が必要だったのです。

さらに紙面左上の「社説」では、枠の下半分を使って当用漢字を採用するにあたって、これまでの経緯などを述べています。半世紀もの間、漢字の使用数を制限しようと試みては、元の状況に逆戻りしてしまうことを繰り返していたのだそう。

・(毎日新聞、1946年(昭和21年)12月1日朝刊の一面の画像)
明けて12月1日の紙面がこちら。「ホーレー賠償案の詳細」という見出しをはじめ、横字はすべて左書きに変わっています。



●朝日新聞

・(朝日新聞、1946年(昭和21年)12月31日朝刊の一面の画像)
三大紙で最後に横字左書きになったのは朝日新聞で、毎日新聞の1ヵ月後となる1947年(昭和22年)1月1日でした。こちらは、前年の12月31日の朝刊一面です。「労働運動の回顧と展望」という見出し他、右書きになっています。が、他の2紙のように、(一面には)左書きに統一する旨は記載されていません。

・(朝日新聞、1947年(昭和22年)1月1日朝刊の一面の画像)
明けて1947年元旦の朝刊です。一面トップ記事である「マ元帥・年頭の言葉」という見出しが左書きになっています。マ元帥とは連合国軍最高司令官総司令部(G.H.Q.)の最高司令官、ダグラス・マッカーサーのこと。
By
- Own work, Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=15670870
最後は日本銀行券(お札)を見てみましょう(※見られない場合は元記事にて)。1946年(昭和21年)2月25日発行の10円紙幣は、まだ右書きでした。算用数字は左書きなので、現代の感覚からするとややこしいですね。
- 投稿者自身による作品, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=15668423
日本銀行券で最初に左書きになったのが、1948年(昭和23年)5月25日発行の五銭紙幣でした。このようにして、少しずつ、右書きのものが左書きに統一されていったのですね。



駆け足で横書きの右書きから左書きへの遷移についてまとめてみましたが、いかがでしたか。著者も実際、戦後のある時にお触れなどが出て、ガラリと右書きから左書きに変わったんだろうな、とぼんやり思っていましたが、想像していたよりもことは複雑だったのだと驚きました。引き続き、昭和の歴史を紐解いていければと思います。

(服部淳@編集ライター、脚本家)

※参考文献
日本語大博物館 悪魔の文字と闘った人々/紀田順一郎/ジャストシステム
国語政策の戦後史/野村敏夫/大修館書店

タグ

    goo ランキング

    新着